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 鼻歌が止まらない。

 

 

1760+α

 

 

 鼻歌というより、もはや歌だけれど。

 無意識のうちに口をついて出てくるのだ。包丁も、その調べに合わせて軽やかに動く。

 先ほどの少佐との会話を頭の中で繰り返す。その度、口端はゆるゆるとつり上がり、目尻は締まりなく下がるものだから、繰り返されるその動きに頬の筋肉が痛くなり始めている。鏡を見なくても分かる。私は今、物凄くだらしない顔をしているに違いない。

 ここ最近、私は自分でも呆れるほど浮かれてしまっている。でもそれも仕方ないのだ。だって少佐が次々に、思ってもみなかった嬉しい言葉をくれるのだから。

 

 あの日、少佐がネックレスに気づいてくれたことは、本当に一番の予想外だった。そのことだけでも今だに私は、今にも声を出して笑ってしまいそうなくらいだ。実際くすくすという声は、あの日何度もやらかした。幸いずっと裏方に徹していたから、誰に見咎められることはなかったけれど。それをいいことに私は一人で、ひたすらにやにやしていた。

 気付いてくれないと思っていた私の予想は、半日も経たないうちに見事に外れた。しかもそれだけではない。誕生日まで少佐は覚えていてくれたのだ。

 

 ダンダンッと、勢いよく包丁とまな板を打ち合わせながら、私は鶏を捌く作業に精を出した。オコーネルさんの鶏は見事なほど丸々と太っていて新鮮だった。

 

 あの日以来、私はネックレスを着けていない。何だか勿体無くて、とても普段使いには出来ないのだ。だから今は、誕生日とか、新年とか、そういう特別な日のために大事にしまってある。奥様に言ったらがっかりさせてしまうだろうか。それだけが気がかりだけれど、生まれ持った貧乏性は、残念ながらそうそう変わるものではない。それにあのネックレスは既に、私に充分すぎるほどの喜びを運んできてくれた。国宝並みに大事に扱ってしまうのも当然だ。

 ただひとつ心外だったのは、似合わないと言われたことだ。まあるいハート型の小さなルビーのネックレス。私は赤が似合うとよく言われるし、実際奥様も他の隊員達も、みんな似合うと言ってくれたのに。

 

 ――全然似合ってねェ。

 ――テメェはそのくたびれた、いつものエプロンで充分だ。

 

 少佐の口調は皮肉というよりも、子供の憎まれ口のようだった。そう思うのは私の気のせいなのだろうか。確かめようにも、あの言葉を聞いていたのは私しかいないので、どうしようもないのだけれど。

 けれども、似合わない、そんな言葉が殆ど気にならないほど、少佐がネックレスに気付いてくれたことが、私は嬉しかった。本当に嬉しかったのだ。それに。

 少佐とお嬢様のこと。

 別に二人がうまくいかなかったからって、私にお株が回ってくるわけではない。それは重々承知している。だけどその話を聞いて、密かに安堵せずにはいられなかった。私はなんて嫌な人間だろう。でもそれが正直な気持ちなのだから、仕方ないではないか。嫉妬も妬みも何もない、そんな恋など有り得ないのだ。

 

 開き直ったというわけではないけれど、落ち込んだり、自信を失くしたり、相手を恨めしく思ったり、誰かを羨んだり、そういう感情もまた恋の一興だ。私は最近、そう考えるようになっていた。

 私が少佐を好きになったのは別に、少佐に私を好きになって欲しかったからではない。そりゃあ、好いてもらえたら、ものすごく幸せだろうとは思うけれど、そのことだけに幸せが詰まっているわけではないのだ。

 例えば、ああいった少佐との会話。例えば、ああして笑いあうこと。日々の中にある、何でもないことでも、そこに少佐が少しでも絡めば、私はとても幸せな気持ちで笑える。それだけで充分、少佐を好きになった甲斐があるというものだ。独りよがりの自己満足だろうと、所詮私の片思い。私がそれでいいのなら、それでいいじゃないか。

 

 捌き終わった鶏を、用途別に切り分ける。無意識に口から飛び出す歌に合わせて、小気味よく包丁を動かしながら、ふと、自分の指先に目を留めた。途端、カッと頬が熱くなって、顔全体が赤くなっていくのが情けないくらい自分で分かった。

 ついさっき、思わぬ形で少佐の首に直接触れた指。少佐には、冷たいと怒られてしまったけれど、実際のところ私は、指の冷たさを気にしているどころではなかった。少佐のコブのことで、頭が一杯だったとは言え、まさかあんなに顔が近くなっているとは思わなかった。睫がはっきり見えるくらい、すぐ傍に少佐の顔があった。

 驚きと気恥ずかしさに思わず、つっけんどんな態度を取ってしまったから、少佐はきっと無礼な奴だと思っただろう。おまけに動揺して赤くなってしまったし。慌ててそそくさと距離を取ったけれど、少佐に気づかれてしまったかもしれない。まあ、その後の会話を考えれば、多分大丈夫だとは思うけれど。

 その後の会話―――…。そこまで考えて、私はまた、ふにゃふにゃと締まりない顔になっていく。

 

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~ 少佐と私。~

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