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「ほい、リサちゃん。これオマケ」

 そう言って、食材宅配サービスのおじさんがくれた涼しげな色合いのそれに、

「わあ、ありがとうございます」

 と、純粋に喜びの声をあげた、その数秒後。

 私は、キランと瞳の奥を煌かせた。

 これだ。

 そう思った。

 

 

COOL CANDY

 

 

誰だ。しかし、振り返ったそこにはただ、闇があるばかりだった。男は背筋に冷たいものが走るのを感じた。ごくりと唾を飲み込んだ喉が、恐怖に引き攣る。男がそうしているうちにも、女の声は一層強くなってくる。甲高く笑うように。低く囁くように。それは確かに聞き覚えのある声だった。男の全身に震えが走った。まさか。男がそう思った瞬間、肩にぞっとするほど冷たい何かが触れた。ぐっしょりと肩が濡れていくのが見ずとも分かる。男はがくがくと膝を震わせた。ぼたっと、何か、水気を多量に含んだ重たいものが、その足元に落ちる。ひっ。男は思わず悲鳴をあげて後ろに飛び退いた。その目が驚愕にこれ以上ないほど見開かれる。男が目にしたもの、それは、

 

 スパァァァンッ、と、我ながら胸がすくほど小気味いい音が室内に響いた。

「いってー。何すんですか、少佐。邪魔しないでくださいよ」

「テメェが邪魔してんだろが。人の背後で、おどろおどろしい声出してホラー小説読みやがって」

 何のつもりだテメェ。後ろでわざとらしく頭を擦っているグリンにそう言って、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。最近はこのドスを利かせた声も、専らこいつ専用になってきた気がする。

 苦々しい気分で、グリンを引っ叩くために丸めた書類を元に戻していると、手前の椅子に座りなおしたグリンが、分からない人だなぁ。と、文庫本片手に首を振り振りほざきやがった。

「この暑さの中、真面目に仕事をしている上司を少しでも涼しくしてやろうっていう、部下の優しい心遣いじゃないですか」

「なァにが優しい心遣いだ。嫌がらせする暇があったら、テメェもちったァ真面目に仕事しろ」

「うっわ、ひっでー。ちょっと今の聞きました、大佐? 部下の優しさを踏みにじる暴言。やっぱこの人、管理職に向いてないですよ」

 わざとらしく目を見開いて、グリンは隊長席のバルバを大袈裟に振り返る。どうでもいいが、どうしてこいつはこうも仕草がいちいち全部わざとらしいのか。

 俺はもう無視を決め込んで、書類に目を通そうとした。だが結局一行も進まないうちに、隊長席から響いてきた暢気な声に中断せざるを得なくなった。

「まあまあいいじゃないか、シューイン。レオも、悪気があってやってるわけじゃないんだから」

 なあ、レオ? と、呼びかけたバルバにグリンは、勿論ですよ。と、慇懃な態度で頷く。思わず溜息が口をついて出た。片手で両方のこめかみを押さえながら口を開く。

「あのなァ、バルバ。悪気がなきゃいいっつう話じゃねェだろ」

 大体あんたは何かと甘やかしすぎなんだ。そう続くはずだった俺の言葉はしかし、バルバのこれまた暢気な笑みによってあっさり消される。

「まあまあいいじゃないか。こんなに暑いんだ今日くらい」

 この人の笑い顔やら声の響きやらには、この世の一切を無力化する力があるのではないだろうかと思う。俺はもう、さっき続けようとしていた言葉を言う気にもなれず、再度溜息を吐いてから、机の上の煙草のケースを手に取った。

 確かにこう暑くては、サボリたくなるのも分かる。ただ机に向かって頭と手を動かしているだけでも、汗が吹き出てくるのだ。天井に取り付けられた旧式の扇風機なんか、もはやただの飾りと言っていいほどに何の効果もない。本来許すべき立場ではないが、これでは仕事に身が入らなくても仕方がないと多少は思う。

 とは言え、グリン相手にそんな仏心が湧くわけもない。なんせこいつは、季節に関係なく年から年中こんな感じで、おまけに俺には九割方嫌がらせしかしない男だ。そのくせ、諜報員としては他に並ぶものがいないほど優秀ときてるものだから、余計に腹が立つ。

 今朝開けたばかりの煙草のケースの中身は、いつのまにか後三本を残すだけになっていた。最近少し吸いすぎだと自分でも思うが、無意識に手が伸びるものはどうしようもない。大体、何かと苛つくことが多過ぎるのだ。夏の盛りに入って連日猛暑日という暑さの中、テロリスト共は三日に一度は脅迫状紛いの声明文を送りつけてくるし、上層部の連中は有事にいちいち口出ししてきては世論がどうのこうのと喧しいし、始末書含め書類仕事は片付けた傍から増えていくし、部下はこんなんだし、これで苛つくなというほうが無理だろう。

「ところで、レオ。その話、最後、主人公の男はどうなるんだ?」

 これまた無意識に眉間に皴を寄せて煙草に火をつけた俺の傍らで、バルバが何気ない調子でグリンに問いかける。心なしか声が硬い。グリンは何も聞こえなかったように、あ、いっけね。と、すくと立ち上がった。

「俺、蝉に羽化すんの見守るって約束してたんだった」

「えっ? 蝉? いや、ちょっとそんなことより、話の最後は」

「んじゃ、大佐に少佐。どうも失礼しやした」

「おおい、レオ? レオナルドくーん? ちょ、お願い、せめて男の安否だけでも教えて」

 バルバの呼びかけを完璧に無視して敬礼すると、グリンは文庫本片手にさっさと部屋を出て行った。本当にあいつは人格に大きく問題があると思う。

 

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~ 少佐と私。~

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