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「時間屋」

 

 

 古い色付き窓から差し込むセピア色に染まった午後の日差しが、甘やかすように瞼の動きを鈍くさせる。

 耳を包むのは、時折本を捲る音だけの柔らかな静寂。

 一秒一秒が飴細工のごとく引き伸ばされ、ゆたり、ゆたりと、重なっていく時間の感触がたまらなく心地いい――――……。

 

「リコ。一応、勤務時間中だからね」

 今にも船を漕ぎそうになっていたリコは、マスターのその言葉にはっとして、巻毛を揺らしながら慌てて顔を上げた。

「すみません、あまりにも気持ちよくて、つい…」

 うつらうつらしていた意識をはっきりさせるべく、まあるい頬を小さな手のひらで挟むようにペシっと叩く。

 リコの律儀なその動作に、視線を開いた本に落としたまま、マスターは小さく笑んでみせた。

「お客さんも来ないしねえ。眠たくなるのも仕方ないか」

 艶光のする木製のカウンターの向こうに腰掛け、僅かにも体勢を崩すことなく本を読み続けながらそう言うマスターを目に、リコは小さく息を吐いて同意の声をあげた。

「本当、今日は暇ですねえ。ラースさんも来ないし」

 ラースさんというのは、この店の常連客の老人である。ほぼ毎日のように開店から閉店まで店の片隅で、しわくちゃの顔に優しい笑みを浮かべて座っているその老人の姿を脳裏に思い浮かべて、リコはまた小さく息を吐いた。

「まあ、来ないほうが本当はいいんでしょうけど」

「あはは、それじゃあうちは商売あがったりだよ」

 リコのため息混じりの呟きに、マスターがやはり本から視線を逸らすことなく、からからと軽い笑い声を返す。その顔をちらっと見て、そもそもマスター、商売なんてしてないじゃないですかと、心の中だけでリコはぼやいた。

 それにしても、今日は本当に暇だ。

 天気も良いこともあって、朝から張り切って掃除に精を出したのが悪かった。こんなに暇だと分かっていたら、掃除するところを午後にも残しておいたのに。

 後悔先に立たずとはこのことか。汚れ一つなく磨かれた窓ガラスの向こうに見える、これまたぴかぴかに磨き上げられた真鍮の垂れ看板を見ながら、そんなことを思う。

「マスター。私もう一回、外の掃除でもしてこようかな」

「ええ?」

 壁際に設置された椅子から窓の外を見て言えば、マスターはやや驚いたふうな声だけをリコに返した。

「もう朝から三回はしてるじゃない。店の外も中もさあ。今日は掃除はもういいよ」

「だって」

「暇なら、ほら、本でも読んだら? 地下から好きなの取ってきていいから」

 言って地下への通路を指差すも、その視線は相変わらず本へ向けられていて、一度たりとも顔をあげない。伸びるに任せた小麦色の前髪が邪魔して、リコからはその目元がよく見えないが、おそらく会話している間もその若草色の眼球だけは文字を追って忙しく動いているのだろう。そのことに呆れたこともあったが、慣れてしまったのか今や別に何も思わない。

 マスターの提案をほんの少し考えてから、リコは諦めたようにぶんぶんと首を横に振った。

「だめです。それこそ私、本当に寝ちゃいます」

 本を読むのは嫌いではないが、いかんせん今は体を動かさないと眠気に負けてしまう予感しかしない。本日四度目の掃除を決めて、リコは椅子から勢いよく立ち上がった。

 その時だった。

「あ」

 それまで僅かにも体勢を動かさなかったマスターが、声と同時にぴくりと体を震わせ、徐に顔を上げた。

「え?」

 その変化に思わず動作を止めて振り返ったリコに向かって、若草色の目が柔らかく細まる。

「よかったね、リコ。お客さん」

 

 マスターが本を閉じたのと、店のドアが開いたのはほぼ同時だった。

 ドアに付けられた銅製のベルがチャリンチャリンと来客を告げる。その音にリコは全身で振り返ると、笑顔で客を出迎えた。

「いらっしゃいませ!」

 入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。銀糸が縫い込まれた灰褐色の上品なドレスに、見るからに手触りがよさそうな毛皮のショール。濃い栗色の髪は、真珠で細工された銀の髪留めで綺麗に結い上げられていて、ひと目で裕福な家柄のご婦人だと分かる。

 リコは失礼だと思いつつも、一瞬見惚れてしまった。女性の出で立ちの美しさにではない。女性の顔立ちそのものにだ。大きな黒い瞳に同じく黒く濡れたような長いまつ毛。陶器のように白い肌。ふんわりとした形のいい唇。美人ってこういう人のことを言うのだろうと、しみじみ思う。

 一方、女性は遠慮がちに店内を見回しながら、おずおずとした様子で小さく声を響かせた。

「あの…突然申し訳ありません。こちらで時間を扱っていると聞いて伺ったのですが……」

 その声色から、真っ向から疑っているわけではないにしろ、どこか不審さを拭えていないことが窺い知れた。

 リコは一瞬とはいえぽーっと見惚れていた自分を心の中で嗜めると、女性を安心させるべく更なる笑顔を作って口を動かした。

「はい! 当店は『時間屋』でございます。お望みの時間を指定していただければ、お客様の大事な心を安全且つ迅速にその時間へお送りいたします」

 しかし、百点満点の笑顔で放ったリコの言葉に女性は、その美しい顔立ちを僅かに曇らせた。

「…心…だけですか?」

「え」

 ああ、これは…。と、リコが女性の言葉から客の性質を結論づけるより早く、カウンターの向こうで相変わらず座っていたマスターが、ゆっくりと立ち上がる気配がした。

「お望みであれば、心以外のものもお送り出来ますよ」

 その声で初めてマスターの存在に気づいたのか、女性が少し驚いたように顔を向ける。リコもつられてそちらに顔を向ければ、カウンターから出てきたマスターが、古い作法で慇懃にお辞儀をしているところだった。

「はじめまして。ようこそ、マダム・ボールダー」

「何故、私の名を…」

「これは失礼。私は店主のセルジュ・ブランベルと申します。こちらは助手のリコ。リコ、お客様にお茶を」

 驚く女性に涼やかな笑みを返し、マスターが同じ笑みでリコに申し付ける。リコは邪魔にならないよう小さく「はい」と返すと、お茶を淹れるべく、店の奥にある狭いキッチンへと向かった。それと同時に、マスターが近くのテーブルを指し、女性に椅子を薦める声が響く。

「どうぞ、こちらへ。時間屋のご利用は初めてですね? 当店は支局の許可を得ている正規営業ですから、どうぞご安心ください」

「では、あなたが例の……」

 キッチンと言っても扉もないので、店内にいる二人の声が筒抜けだ。

 リコは、コンロにかけた薬缶の湯が沸いているのを確かめて紅茶の缶を棚から取り出しながら、聞くでもなく響いてくる声に耳を傾け、ちょっとだけ落胆に肩を落とした。

 この手の客は、マスターの管轄だ。リコにはまだ、上からの許可が出ていない。だから、この手の客が来た場合のリコの仕事は、こうやってお茶を淹れることくらいである。

(暇で暇で寝ちゃいそうなくらい退屈してたところに、ちょうどよくお客さんがきたと思ったら、あれだもんなあ。つまんないの)

 まあでも、滅多に見ない美人なお客さんだし、目の保養が出来たと思えばいいか。と、内心で客に対して失礼なことを考えている間にも、店内ではマスターが、事務的な喋り方で女性と話を進めている。

「先ほどのお話ですが、時間さえしっかりと指定していただきましたら、心以外のものでしてもお送りすることは可能です。ただしその場合、時間の先にてお客様の時間に何かしらの変化が生じる可能性が」

「はい、分かっています。それでもいいんです」

「変化によりお客様自身に不都合な時間が現れても、当店は勿論、支局の方でも一切の責任は負いませんが、それでも?」「はい、構いません。あの時に戻れれば何でも、何も構いません」

「分かりました。では、規則ですので、こちらの書類にサインをいただけますか。それから、対価についてですが……」

 説明文をそのまま読んでいるようなマスターの声に、どこか切羽詰まったような客の声。

 ある意味聞き慣れているその二つを耳に、リコは茶っぱを入れたポットにお湯を注ぎながら、やっぱり四度目の掃除をしようと心に決めた。

 

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