きみのことがすきなんだ
後期試験も何とか終わって、新年会という行事にこじつけた飲み会でのことだった。
「あはははは」
空のジョッキや、つまみの皿でごった返すテーブルを挟んで向いに座る女の子が、俺の話に声をあげて笑った。
土曜の夜ということもあって、安さだけが売りの居酒屋は俺達のような金なしの大学生で賑わっていて、あちらこちらから聞こえてくる活気ある喧騒に、その子が立てた笑い声は、とても馴染んで響いた。
「孝くんって面白いよねえ。なんか、いっつも楽しそうで羨ましい」
笑って言った顔が頷くように揺れる。多少酔っ払っているのだろう、化粧の下から自然な血色が浮かび上がっていて顔が赤い。同じ大学じゃないけど、サークル関係の飲み会で何回か顔を合わせている子だ。この前会った時は直毛だったのが、パーマをかけたのか、毛先がくるくると巻いている。最近よく見る女の子の流行の髪型だ。女の子らしい感じがするから、俺も結構好きな髪形だったりする。
「こいつ、馬鹿だから悩みなんてないんだよ」
俺の横に座っていた友達が焼酎のグラス片手に、俺を指差し笑う。聞き慣れたその軽口に笑って、俺だって悩みくらいあるっつうの。と、いつも通り軽く返そうとしたときだった。
「何言ってんの。悩みがない人間なんているわけないじゃない」
喧騒の中、その声は、はっきり鼓膜を震わせた。けして場の雰囲気を壊すようなものじゃなく、むしろ、みんなと同じ軽く酔いの回った陽気な響きなのに、喧騒という名の雑音に紛れることのない、他にはない確固たる存在感が、その声にはあった。
自然と引き寄せられた目の先にいたのは、今日初めて顔を合わせた女の子。
名前は確か、理沙ちゃん、だったか。さっき、声をあげて笑った子が連れて来た友達だ。
真っ直ぐの綺麗な栗色の髪をシュシュでひとつに束ねて、ざっくりした大き目のV字のセーターから惜しみなく鎖骨を覗かせている彼女は、涼しげな奥二重の目で褒めるように俺を見ながら、さらりと言った。
「いつも楽しそうにしていられるって凄いと思うよ。それだけ周りの人に気配りが出来るってことだもん」
その瞬間、俺は彼女に恋をした。
「母ちゃん。何時に帰るの?」
見舞い客用の簡易椅子にでっぷりと腰掛けて、俺に買ってこさせた缶コーヒーで一休みを決め込んでいる母親に、スマホから顔をあげて声を投げる。
「えー? どうして?」
「いや、もうすぐ友達が見舞いに来るっていうから」
ベッドの上から素直に告げれば、母親は不服そうに顔を顰めてみせた。
「何よ、お母さんがいたら駄目なわけ?」
「別に駄目じゃないけどさあ」
駄目じゃないけど、出来たら遠慮して欲しい。心配かけた上に、俺の着替えやら入院のあれこれやら迷惑をかけて、申し訳ないと思う気持ちがないわけじゃないけど、家族にはあまり見せたくない自分の顔というものがある。
不服そうに俺を見ていた母親が、俺の表情から何か悟ったらしく目を狭める。母親というのは、こういう時の勘がやたらいいから厄介だ。ベッドの上に胡坐を胡坐をかいたまま、視線を泳がせれば、思ったとおりの質問が飛んできた。
「誰が来るの?」
「真生とか……他の友達」
「あら。真生くんが来るなら、お母さん、この間のお礼も言いたいし、待っていようかなあ」
缶コーヒーを口に運びながら、軽い調子で母親が言う。絶対わざとだ。
別にいてもらっても構わないと言えば構わないのだけど、なんとなく気恥ずかしいのだ。母親に、その自分を見られることが。何を言い出すか分かったものじゃないという心配もある。
黙る俺を余所に、母親は何食わぬ顔で時計を見て続けた。
「でも残念ながら、お母さん、この後フラダンスのお教室なのよね。あ、もうこんな時間。行かなきゃだわ」
慌てたように缶コーヒーを一気に飲み干して、フラダンスなんぞ到底似合わない、贅肉がたっぷりついた腹と尻を持ち上げて母親が立ち上がる。
「残念だわ、本当に。あんたの彼女に会ってみたかった」
持って来てくれた着替えと入れ替わりに、洗濯物を入れた紙袋を持ちながら、母親が何気ない調子で言う。天下の母親相手に何を言っても無駄だと開き直って何も返さずにいると、母親が少し驚いた顔を向けてきた。
「なに、本当に彼女なの? やあね、付き合ってる子がいるならいるで、家に連れてきなさいよ。お母さんだって、挨拶くらいしたいじゃないの」
少し責めるように言ってくるその顔に、気持ち項垂れつつ、やけっぱちで声を返す。
「そのうちね。付き合えたらね」
「あら、片思いなの?」
「……どうでもいいだろ」
ずばり大正解の質問に、それしか返す言葉がない。母親は情けないと言わんばかりに肩を落として、分かったふうに言う。
「どうせまだ、ちゃんと相手の子に言ってもないんでしょ。あんた、お父さんに似て、肝心なところで気が小さいからねえ」
「うるせえよ」
どこまでも大正解の言葉に、もはや憎まれ口を叩くしかない。
(次)