top of page

 断っておくが、私は別に骨董品マニアではない。

 古いものには古いものの良さがあるとは思うものの、どちらかといえば、新しい物のほうが便利だし、好きだ。

 そんな私が何故今、かれこれ十分近く、建物自体が骨董品のような古めかしい木造の骨董品店の前に立っているかというと、私がここの店主と友人だからだ。友人というか、腐れ縁と言ったほうがぴんと来る、そういう付き合いだが。

 この場に到着してから恐らく三回目になる深呼吸をして、引き戸に手を伸ばす。

 京都の町屋を連想させる歴史ある外観によく似合う、今時滅多に見ない大きな硝子がはめ込まれた木製の大戸は、老朽化が進みすぎて、コツを知る者でないと開けられない。仮にも客商売でこれはいかがなものかと思わなくもないが、どうせコツを知らない一見客なんて、まず来やしないから別段構わないのだろう。

 気を紛らわせるようにそんなことを考えながら、やや斜め上に一度押してから横に滑らせて戸を開けば、そこから先はもう、私にとってはある意味、異世界だ。

 それぞれになんとか焼きとかいう名がついた大きな壷やお皿、不思議な形をした意味不明の彫刻、描かれた鳥や獣が今にもよいしょと乗り越えて出てきそうな掛け軸といった非日常的な代物が所狭しと存在する。そのどれもが、当然だが、古く年季が入っていて、まるでここだけ世界から切り離されて、時間から置いていかれたかのような印象を受ける。

 私はそれが、あまり好きではない。

「皐月ー? 来てやったわよー」

 沈殿していた埃を舞い上げ、滞っていた空気を割るように足を運ぶ。

 古代中国王朝を思わせる透かし彫りが豪華な衝立の向こうに、いきなり庶民染みた普通の事務用デスクがあって、そこが店にいる時の皐月の定位置だ。今日もいつもと違わず、着古したセーターに半纏姿でそこに座って、何かしら本を読んでいるらしい。ずっと下を向いたままだ。私の声に、ぴくりとも反応しない。声どころか、店に人が入ってきたことさえ、きっと気づいていないのだろう。微動だにせずにひたすら、本の世界に没頭している。

 この男は昔からこうだ。何かに集中すると、周りのものを完全に遮断してしまう。その集中力は凄いと思うが、感心を通り越して今では呆れしか感じない。

「ちょっと。人を呼びつけておいて、出迎えの言葉もないわけ?」

 言うと同時に、開かれたページの、ちょうど真ん中あたりに左手を置く。ダンっと、少し強めに。本に罪はないが、こうでもしないと皐月がこちらに戻ってこないのだから仕方がない。それに、今日は少し、他の意図もあった。

 これみよがしに置いた左手に、僅かに力を込めて、気づけ。そう念じた。

「ああ、透子」

 しかしながら、返ってきたのは、いつもと変わらないのんびりとした声だった。戸惑いも驚きもない。

 細い目を更に細めておっとりとした笑みを浮かべ、皐月はそののほほんとした顔を、いまだ私の左手が乗っている本からこちらに向けた。

「いらっしゃい。早かったね」

「いらっしゃい、じゃないわよ。あんた、もしこれが私じゃなくて強盗とかだったら、どうするのよ」

「あはは。こんな店狙う強盗がいたら、よっぽど運が悪い人だよ」

 暢気な顔で暢気なことを言いながら、皐月が『本日閉店』の札を手に立ち上がる。そうしながら、慣れた仕草で、奥の上がり框を顎で指した。

「寒かったろう? 先に中に入ってて」

 私は返事の変わりに、すんと鼻を鳴らした。促されるまま、奥へと向かう。

 

 私と皐月は高校の同級生だ。

 クラスが一緒になったことは一度もないが、部活が一緒だった。私は日本画、皐月は西洋画という選択の違いはあったものの、同じ美術部員として三年間、同じ空間で絵を描いていた。

 皐月はその頃から背だけはひょろひょろと高かったが、特に勉強が出来るわけでもなければスポーツが得意なわけでもなく、どちらかと言うと地味で目立たないタイプの男子だった。

 けれど私は、初めて見た時から、皐月の描く絵の虜になった。

 デッサン力もさながら、皐月は色彩の捉え方というか、光と影の表現が卓越していた。皐月がキャンバスに描き出す色には、他の誰にも真似できない深い趣があった。事実、皐月の絵はコンクールなどで度々入賞していた。城戸画伯。私はよくふざけて、皐月をそう呼んでいた。

 高校を卒業して、私達は二人とも地元の美大に進学した。私は、才能や技術は別にして、絵を描くことが好きだったし、将来はどんな形でもいいから美術に携わる仕事に就きたいと考えていた。きっとそれは皐月も同じだったはずだ。才能や技術に恵まれていただけ、皐月のほうがずっと、将来に夢を描いていたに違いなかった。

 私達の道が別れてしまったのは、大学二年の初冬のことだった。

 皐月のお兄さんとお義姉さんが亡くなった。

 高速道路で玉突き事故に巻き込まれて、すぐに病院に搬送されたが、殆ど即死の状態だったと聞いている。唯一助かったのは、頑丈なチャイルドシートで守られていた、まだ五歳の息子さんだけだった。

 当時既に皐月のご両親はそれぞれ病気で他界していて、だから皐月が家族と呼べるのは、お兄さん夫婦だけだった。お義姉さんのほうの親族とは、お義姉さんが親の反対を押し切ってお兄さんと結婚したこともあって、元々疎遠だった。そんな環境の中、一人残された小さな甥っ子を引き取るのは、誰よりも皐月が強く望んだことだった。

 当然ながら、周囲は揃って難色を示した。疎遠とはいえ、お義姉さんのご両親は健在だったし、何より皐月はまだ二十歳を過ぎたばかりの学生に過ぎなかったのだ。子供を育てるというのは生半可なことではない。社会に出てもいない若造に背負えるような責任ではない。親戚は勿論、大学の教授も高校の恩師もゼミの仲間も、みんな口を揃えて反対した。

 けれど皐月の意思は、強靭なまでに強かった。ひたすら周りを説得し続け、年が明ける頃には大学を辞め、お兄さんがお父さんから継いだ骨董品店の新店主となり、その手にしっかりと、幼い甥っ子の手を握っていた。

 あれから十三年。皐月はもう、絵を描かない。

 

 居間の隣に位置する和室は、冷え切っていた。

 仏壇前の冷たい座布団に座り、お線香の先につけた火を振って消す。独特の香りが、薄い線となって立つ。仏壇の上には、私の知る限り欠かされたことがない生花と、近所の和菓子屋で買ったのだろう団子のパックに橙色が瑞々しい蜜柑が数個。そして、こちらに向かって静かに微笑む人達の写真。

 もはや服の皺の位置すら覚えてしまっている写真の中の彼らは、今日もあの頃のままの姿で、ただじっと、変わらぬ微笑を浮かべている。私はそれを少し見た後で、鈴を鳴らし、手を合わせた。

「透子、飯食った?」

 背後で音がして障子が開く。それとほぼ同時に言葉を投げかけてきた皐月を振り返りながら、私は正していた姿勢を崩した。

「まだよ。誰かさんが、仕事終わったらすぐに来いっていうから、何も食べる暇がありませんでしたー」

「真生くんが透子の分も飯作ってくれてるからさ。一緒に食おう。筑前煮、好きだろ?」

 わざとらしく嫌味を混ぜた私の口調に朗らかに笑って、皐月が台所へと消える。

「そういえば、今日は真生は? バイト?」

 この家のもう一人の住人の所在を尋ねながら、私も居間に移動した。勝手知ったるなんとやらで、炬燵の電源を入れ、冷えた足を中に潜り込ませる。ついでに、テレビもつける。リモコンを持った左手に自然と目が行く。一瞬、外してしまおうかと思った。けれど、やめた。

 明日の天気について語っている天気予報士の声に混じって、のんびりした皐月の声が台所から響く。

「大学の友達と旅行中~」

「旅行? どこに?」

 明日の夜から気温がぐっと下がるらしい。本格的な冬将軍の到来。天気予報士の言葉に軽くげんなりし、チャンネルを適当に変える。

「雲仙にスキー。温泉付きだって」

「かー、温泉かあ。いいなあ」

 政治汚職問題のニュース、お笑い芸人だらけのクイズ番組、中高生がターゲットの歌番組、家族向けの動物バラエティ番組、韓流純愛泥沼ドラマ……。目的なく一周した後、これまた目的なくクイズ番組にチャンネルを戻したところで、皐月がお盆を抱えて戻ってきた。

「透子も行けばいいじゃん。もうすぐ冬休みだろ」

「あのねえ。生徒と一緒にしないでくれる? 教師には冬休みなんてないに等しいのよ」

 半目になった私を介せず、皐月はのほほんと笑いながらお盆を下ろす。

 炬燵のテーブルに並べられていく料理の数々。筑前煮。ほうれん草の胡麻和え。出汁巻き卵。ちりめん雑魚たっぷりの胡瓜の酢の物。豆腐と葱のお味噌汁。胃袋が空っぽだと、それらを前にして体が急に自覚した。実を言うと今日はお昼を食べていない。食べられなかった。

「で?」

 渡されたお椀を受け取りながら、皐月を見やる。

「何よ? 電話で言ってた、来ないと損することっていうのは」

 お味噌汁のいい匂いが、湯気と一緒に鼻を擽って、食欲を刺激する。尋ねながらも早速箸に手を伸ばした私に待ったをかけるように、皐月が言う。

「うん、いや。ていうか、透子、手洗った?」

「洗った。いただきまーす」

 言って、ずずっと味噌汁を啜った。途端口内に広がる味噌の風味に思わず、ほうと息が漏れる。考えてみれば、真生のご飯を食べるのも久しぶりだ。

 皐月は手先は器用なはずなのに、料理だけはからっきし駄目で、お味噌汁ひとつまともに作れた例がない。だから、真生がまだ小さかった頃は、私はここで毎日のように二人のためにご飯を作っていた。自慢ではないが、今では町内一の料理上手と言われるほどに成長した真生に、料理の基礎を教えたのも私だ。しかしながら、踏み台に乗って包丁を持つ、そのたどたどしい手つきをはらはらしながら横で見守っていたのは遠い昔の話で、今や彼は私が作れない料理まで、驚くほど手早く上手に作る。私はもはや教えを請う側だ。透子さん、料理の基本はさしすせそだよ。そんなことを真顔で言われたりする。本当に自慢にならない。

「透子、明日休みだよね?」

 一人先にお味噌汁を堪能している私を他所に、皐月が戸棚をごそごそと漁りながら声だけ寄越す。

「うん、休みだけど?」

 答えながら、好物の筑前煮に箸を伸ばした。真生に煮物を作らせたら、右に出るものはいないと本気で思う。つけっぱなしのテレビから笑い声が響く。目を向けると、最近売れ始めた若手芸人が体を張って笑いを取っていた。

「あ。あんたまさか、また商店街の年末大清掃、手伝わせる気じゃないでしょうね?」

「違うよ。そっちはもう少し日にちが近づいてから頼むね」

「断る。てか、何やってんの、あんた」

「じゃーん」

 テレビ画面から皐月へと顔を向けた私と、振り返った皐月の声が重なる。

 三十路過ぎた男が、じゃーんって、あんた。と、突っ込みたい衝動は、皐月が手にしているものを認識した途端、綺麗さっぱり霧散した。

「えっ、『綾杉』じゃない! え、なになに、どうしたのそれ?」

「貰い物なんだけどさ。俺一人で飲んでも寂しいし、透子、確かこれ好きだったなと思って」

「好き好き大好き! ていうか、あるなら、さっさと出しなさいよ」

「いや、別に出し惜しみしてたわけじゃないんだけど、透子が一人でさっさと食べ始めちゃうから」

「コップ!」

「はいはい。枡つける?」

「もちろん」

 立ち上がった皐月に大きく頷いて、奪うようにして受け取った瓶に目を落とす。緑色の瓶に張られたラベルには『純米原酒』の立派な文字。思わずにんまりしてしまう。本醸造や四段なんかも美味しいけれど、日本酒はやはり、純米原酒が一番美味しい。特に『綾杉』は知る人ぞ知る銘酒で、私が好きなお酒ナンバーワンだ。

 瓶をテーブルに置きながら、またもや左手に目が行く。そこにあるものをちょっとじっと見て、好物の筑前煮と好きなお酒を見た。

 これは神様の無言の応援だろうか。そんなことを考えて、落胆にすっかり意気消沈してしまった心を密かに奮い立たせた。

 

▲Page top

未来の向こう

bottom of page