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眩むような空には、白く大きな入道雲。

蝉時雨を運ぶ、まったりとした熱い風。

それらは昨日と何の変わりもなくて。

だから今日も、昨日と同じような一日が過ぎるのだと思っていた。

何ら変わらない日常の、何の変哲もない一日だと、そう思っていた。

 

そうだったら、よかったのに。

 

 

nimbostratus

 

 

 正午を過ぎた夏の厨房は、恐ろしく暑い。特に午後一時から二時にかけては、尋常じゃなく蒸し暑くなる。窓も扉も開けられるところは全部開け放しているけれど、微風とも呼べないような蒸した風しか吹かない今日みたいな日にはそれも意味がない。

 それにしても、お湯を出しているわけではないのに蛇口から出てくる水の熱さには、呆れを通り越して軽く感動すら覚えてしまう。おかげで油汚れもスッキリだ。そこかしこで大合唱する蝉の声をバックミュージックにそんなことを考えながら、汗だくになって、昼食に使った大皿の最後の一枚を洗っていた時だった。

「リサさん?」

 と、隊舎では滅多に、というかまず耳にすることのない女性の声で、背後から呼びかけられたのは。

「おっ、奥様!?」

 咄嗟に振り向いた先にいた女性の姿に目を丸くし、私は慌てて蛇口を閉めて作業を中断させた。

「よかった。私ったら、制服を着ていると誰が誰だかよく分からなくて。でもリサさんだけは、さすがに分かるわ」

 そう言って朗らかに笑いながら食堂からこちらを見ている人は、間違いなく、大佐の奥様だ。昨年招かれた新居で初めてお会いした時以来だけれど、こんな美人、一目会ったら忘れようもない。

「どうなさったんですか、こんなところに」

 驚きも覚めやらぬまま、エプロンで手を拭きながら駆け寄ると、ちょっと陣中見舞いにね。と、奥様は両腕を上げて、厨房と食堂の仕切りになっているカウンターに、計六つの大きな紙袋をどさっと置いた。

「これ、ゼリーの詰め合わせ。買ったもので悪いんだけど、良かったら今日の夜にでもみんなで食べて」

「まあそんな。お気遣い頂いてありがとうございます。こんなに沢山、重たかったでしょうに」

「いいのよ。車で来たし、力だけはあるから、私」

 とてもそうは見えない華奢な腕を力自慢するようにして見せながら、それに。と、奥様は続けた。

「お礼を言わなきゃいけないのは、こっちのほうよ。いつも本当にありがとうね、リサさん」

「え?」

「リサさんには日頃何かと、うちの人が迷惑をかけてるでしょう? 直接お礼をしたいから、是非また家にお招きしてって、私いつも言ってるのよ。なのにあの人ったら、忙しいからって全然きいてくれないんだもの」

 少し困ったように肩を竦めてそう話す奥様に、はは。と、私は曖昧な笑いを返す。

 大佐が私を家に招かないのは、何より私を思いやってのことだ。奥様には大変申し訳ないけれど、奥様のおもてなし料理を初めて食べた時、私は危うくあの世に逝きかけた。隊員達の間には、奥様の毒創料理被害者の会なるものまであるくらいだ。

「だから、自分から来ちゃったの。ごめんなさいね、お仕事中に」

 奥様はそう言って綺麗に笑った。本当に、惚れ惚れするくらい綺麗な人。映画女優だと名乗っても、誰も疑わないのではないだろうか。そんなことを考えて、ぽけっと奥様に見惚れていた私は、自分の額に流れた汗でようやく、ここが蒸し風呂地獄だということを思い出した。

「いやだ、こんな暑いところで長々とすみません、私ったら。今、応接室のほうにお通ししますから、そちらに」

「ああ、いいの。気を遣わないで。すぐにお暇するから」

 慌てて厨房から出ようとした私を止めるように手を前にかざして、奥様が口を動かす。

「本部も通さずに直接隊舎に来てしまってごめんなさいね。とにかくリサさんに一言お礼を言いたかったのよ」

 本当にいつもお世話になりっぱなしで。そう言ってまた奥様が礼を述べようとするのに対し、いいえ私のほうこそ。と、恐縮して頭を下げつつ、本当にこのまま暇乞いをしそうな雰囲気の奥様を引き止めにかかる。奥様の言い分がどうであれ、このまま帰すなんてもってのほかだ。

「せめて、何か冷たいお飲み物だけでも。すぐに大佐にも………あ。今日は大佐、外勤で中央本部に」

 言いながら思い出した事実に、私はまさしく、あちゃーといった気分になったのだが、奥様は気にした様子もなくあっさりと頷いた。

「ええ、知ってるわ。だから今日来たのよ。私がいるとなったら、あの人使いものにならなくなるから」

 悪戯っぽく笑いながらそう言う奥様を目に、美人はどんな表情をしても絵になるものだとしみじみ思う。そりゃあ、大佐だって骨抜きになりもするだろう。なんせ女の私でさえ、ぽーっと見惚れてしまう美人なのだ。

 もし私がこれくらいの器量だったら、少佐の反応も何か違っただろうか。なんて、しょうもないことをちらりと思ったりしたところに、いきなり、

「リサちゃん」

 と、野太い声が響いてきて、ボルト軍曹が廊下から直接厨房に顔を出した。

 

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~ 少佐と私。~

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