子供の頃から、聞き分けがいい子だと言われてきた。
我慢強い子だと、言われたりもした。
好きで我慢する子供なんていない。
いるわけ、ない。
start afresh
夏の終わりは何となく、私を寂しくさせる。私だけではない。世界そのものが寂しさに満ちているように思う。
瞼の裏に焼きつくほど鮮やかだった花の色も、いつのまにか、疲れ果てたようにくすんでしまった。耳に染み付くほど絶え間なく合唱していた蝉達すら、気がつけば一匹また一匹と、その声を薄れさせていく。夏が終わると同時に掠れて消えてしまうのではないかと思うほどに、夏の終わりの世界は精彩を欠いて見える。
漫然とそんなことを考えながら、ぼこぼこと煮え立つ鍋から上がる湯気をぼうっと眺めていた。ふと、ピピピ、と、手元のタイマーが鳴る。茹で上がったペンネをザルにあげ、両手で持ち上げた鍋を斜めに傾けてお湯をシンクに捨てていると、湯気の熱気がもろに顔に当たった。熱い。暑い。元々蒸し暑い厨房が、湯気の熱気で更に暑い。けれどいつか、この暑ささえ嘘だったように消えてなくなるのだ。もわもわと立ち昇る白い湯気のように。何もかもまるで夢だったように。
「おい、メルロイ」
ぼんやりとした意識の中、急に名前を呼ばれて、ぱちりと目を開けた。
「お前、来週の――」
喋りながら厨房に入ってきたのは少佐で、けれど振り向きかけた私は次の瞬間、左手に走った別の刺激に全神経を持っていかれた。
「あっつッッ!!?」
反射的に両手を引っ込める。嫌な汗が全身にぶわっと一挙に噴き出した。
「ばッ、テメッ何やってんだッ!!」
今だ湯気を立てる中身を派手にぶちまけながら鍋がシンクに落ちたのと、少佐の一際大きな怒鳴り声が厨房に響いたのは、ほぼ同時だった。その凄まじい剣幕に思わず、ひっと身を竦ませた傍から、ずくんずくんと血がそこに集結していくような、焼けつくような痛みに、ひゅっと息を呑む。少佐は凄い力で私の左腕を掴むと、物凄い勢いで蛇口を捻り、自分の手ごと私の手に水道水を浴びせた。
「手だけか!? 他にかかったところは!?」
「な、ないです」
多分。と、訳も分からず私は返事をする。生理的な涙で目が滲む。流水で冷やされているというのに、そこだけ焼けるようにじんじんと痛む自分の左手をぼやけた視界に映しながら、ああ、熱湯がかかったのか。と、その時になって、ようやく私は事態を把握した。
「……病院行くほどでもなさそうだな」
ややあって、少佐がほっと息を吐くように低く呟いた。確かに、今だ少佐の手によって冷やされている患部は、多少赤くはなっているものの水ぶくれなどにはなっていない。
「おい、ヘリング! 医務室から救急セット持って来い!」
ちょうど偶然通りかかったのだろう。少佐が大声でそう言って、はいっ! と、敬礼がついてきそうなくらい威勢のいいヘリング伍長の返事が廊下から聞こえた。
されるがままに水道水をじゃばじゃばと手に浴びながら私は悠長にも、倒れたザルから零れてシンクに流れていくペンネを目に、勿体ないことをしたなあ。などと考えていた。
「ったく。何をしてんだ、お前は」
「……すみません」
応急処置といい、その後の手当ての手際の良さといい、少佐はさすが見事だった。
火傷を負った私の左手は、少佐によってすぐさま流水で十五分程度冷やされた後、これまた少佐によって、てきぱきと軟膏を塗られ、清潔なガーゼを当てられ、綺麗に包帯を巻かれた。熱湯がかかった場所が親指の付け根付近だったこともあって、手のひら全部を包帯が覆っている。これでは左手が使い物にならない。試しにちょっと人差し指を動かしてみたら、火傷した皮膚が引き攣ったのか、痛かった。
「まあ、痕が残ることはねェと思うがな」
そう言いながら、少佐は救急箱を片付ける。厨房奥の休憩室。元々食料貯蔵室だったこの狭い部屋には、天井付近に明り取りの為の細長い窓があるだけで、無論、冷房なんてついているわけもないから、茹りそうに暑い。少佐はいつものごとく、きちっと制服を着込んでいるから、尚更汗だくだった。
「すみません」
ぼうっとしていて火傷をするなんて。しかもその上、少佐の手まで煩わせてしまうなんて。あまりの不甲斐なさに、再びそう呟いた私の声は、本当に情けないものだった。
少佐はちらりとこちらを見たものの何も言わず、煙草を取り出すと黙ってそれに火をつけた。横を向いて静かに煙を吐き出す。それがまた溜息のように聞こえて、私はますます自分が情けなくなる。呆れられてしまったのだろうか。それも仕方ない。私は頭を垂れて唇を噛んだ。そうしながらも、だって、しょうがないじゃない。と、心の中だけで、ひとり言い訳をする。
あの日以来、私の頭は少佐のことでいっぱい過ぎるのだ。
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~ 少佐と私。~