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 吐いた息が、白い。

 頭上を仰げば、鈍色の暗鬱とした雲が、低い空を覆っていた。

 冬だ。

 

 

WHITE BREATH

 

 

「寒いッス」

 鼻の頭を赤く染めて、ヘリングがぼやく。この一時間で、同じ台詞を何回聞いたか分からない。

「少佐、寒いんスけど」

「俺に言うな。冬なんだから、寒くて当然だろうが」

 黙って手ェ動かせ。そう言うと、ヘリングは寒そうに身を縮めながら、はーい。と、素直に白い息を吐いた。

 そう大した作業ではない。装甲車等の軍用車の定期整備点検。さっさとやれば、一時間弱で終わる。それがなかなか進まないのは、ここが車両庫で、今が冬だからだ。冬場の車両庫は恐ろしく冷える。底冷えと言うのか、足元から冷気が伝ってきて、体の芯まで冷えてどうにもならない。当番のヘリングが、ついついぼやきたくなるのも分かる。俺だって既に足の感覚がないに等しい。やたら頑丈な軍用ブーツを履いていてもこれなのだ。上官の立会いが義務でなければ、こんなところ今すぐにでも立ち去りたいのが本音だ。

「俺、老後は絶対、南の島に住みます。こんな凍てついた北国とはお別れします、絶対」

 ずずっと鼻を啜りながらヘリングが語気も強く愚痴るのに対し、好きにしろ。と、返しながら、点検表にチェックをつけていく。

 それにしても寒い。先週まではそうでもなかったのに、一気に冬が来た感じだ。そういえば、少し前にテレビで天気予報士が、寒波がどうのこうの言っていた気がする。さすがにまだ雪が降るような寒さではないが、この分じゃ、今冬の初雪も時間の問題だろう。憂鬱な気分で煙草を銜えた。

 ここより遥かに北方の生まれだと言うのに、俺は昔から寒さに弱い。雪なんざ、出来れば見たくもない代物だ。ヘリングじゃないが、退役したら南の方へ越すのもいいかもしれない。

 ジッポを開く音と重なって、そういえば。と、ヘリングの声が車両庫に響く。

「リサさんの田舎って確か、ラドムのすぐ近くッスよね。いいなぁ、リサさん。あったかいんだろうなぁ、あっちは」

「…んな変わらねェだろ」

 煙草に火をつけながらだったせいで、声がくぐもった。

「電車で、十時間かそこらの距離だぞ? 緯度が違うわけでもあるまいし」

「けど、前にグリン中尉が言ってたッスよ。ラドムの冬は、こっちの春と変わらないって」

「あァ…。そういやァ、ラドムの出身だったっけな、グリンは」

 そうッスよ。答えて、ヘリングはまた、ずずっと鼻を啜った。見れば、作業服の袖で拭ったのだろう、ヘリングの鼻の下には黒い油汚れが、ちょび髭のようについていた。教えてやろうと一瞬口を開きかけたが、なかなかいい感じに間抜けなので、黙っておくことにする。

「南の島なんて、贅沢は言わないッス。ラドムでいいッス。せめて冬の間だけでも、基地移動しないッスかねえ」

 ちょび髭を生やしたまま、切なげにヘリングがぼやく。這い上がってくる冷気にぶるりと体が震え、俺は声を強めた。

「うだうだ言ってねェで、さっさと終わらせろ。お前、メルロイが出発する前に隊舎に戻らなきゃいけねェんだろうが。間に合わねェぞ」

「あっ、やべ。少佐、今何時ッスか?」

「九時半だ」

「九時半!? リサさん、十時過ぎに出るって言ってたッスよね? ちょ、もう、少佐! 早く言ってくださいよ、そういうことは!」

 焦って喚くヘリングを、知るか。と、撥ねつけながら、俺は煙草を銜えたまま、口から煙を吐き出した。

 

 今日の十一時の電車で、メルロイは田舎に帰る。幼馴染のブライズメイドをやるためだ。

 メルロイの口から直接その話を聞いたのは、先月の末のことだ。彼是もう三週間近く経つ。

 だというのに、いまだに俺はあの時のことを思い出すと、羞恥のあまり意味なく喚き出しそうになる。穴があったら入りたいとはよく言うが、もはや穴に入りたいどころか、マントルに飛び込んで地球と同化したいくらいだ。

 大体あれはどう考えても、バルバの話し方が悪い。あれでは誰だって、メルロイの結婚の話だと思うに決まっている。そうじゃなくても、あの数週間前に俺は、バルバともメルロイ本人とも、あいつの結婚に纏わる話をしたばかりだったのだ。勘違いしたって仕方がないだろう。

 唯一の救いは、バルバにもメルロイにも、そのことを気付かれていないことだ。もし知られようものなら、俺は恥辱で死ねる。なんせ、我ながら情けなくなるほど動揺してしまったのだ。当人の目の前で。

 

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~ 少佐と私。~

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