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【 02 】 - 1

 

 さて、困った。実に、困った。

「真生、何をぐずぐずしておる。早う茶を持って来ぬか」

 部屋の中でゴロウさんと談笑しているフィーが、人の悩みも知らないで、暢気に横柄な声を投げてくる。俺は台所に立ったまま、湯飲みと平皿を見ながら、一人悶々としていた。

 初代に預けたものを返して欲しいというゴロウさんの頼みに、とりあえず詳しく話を聞こうと部屋に上がってもらい、フィーに言われるがまま、お茶を淹れるためお湯を沸かしたまでは良かった。問題は、いつも通りに湯飲みを用意していて、ふと気づいたこと。

 はたしてゴロウさんは、湯飲みでお茶が飲めるのだろうか。というか、それ以前に、お茶を飲ませていいのだろうか。

 ゴロウさんは、中身は間違いなく犬じゃないけど、外側は間違いなく犬だ。犬の口の形に、湯飲みはやっぱり不便だろう。それに、日本茶を飲む犬なんて聞いたことがない。あまり知らないけど、人間の食べ物や飲み物は大体において、犬や猫にとっては体に良くないはずだ。あと、犬も猫舌だって、どこかで聞いたような気がしないでもない。

 かと言って、平皿に水を入れて出すのも躊躇われる。だって、はっきりは言わなかったけど、ゴロウさんは多分、いや間違いなく、神様だ。フィーがゴロウさんを誘いの神と呼んでいた。フィーが神って呼ぶのだから、本物の神様なのだろう。

 以前の俺なら、いくら何でも神様だなんて、すぐには信じられなかったと思う。だけど、指輪の所有者になって、精霊やら魂やらの二次元ファンタジーの存在が本当に存在していると知った今、もはや俺の意思はそこに関係ない。信じようと信じられまいと、居るし、在る。それが事実で、現実だ。

 神様と直接会えるなんて、もしかしたらこれが人生最初で最後かもしれないのに、お出しするものがただの水って、あまりにも失礼じゃないだろうか。しかも、神様に水を出しておいて自分達だけお茶を飲むとか、もはや失礼の域を超えて、思いっきり罰当たりな気がする。

 

 他に何かないかと、冷蔵庫を開けて見回しながら悩む。神様って言ったら、ぱっと思いつくのはお神酒だけど、生憎と日本酒なんてストックしていない。

「缶ビールなら、あるけどなあ……。てか、犬にアルコールってのも、やっぱダメだよな。あー、何出したらいいんだ、マジで」

「それでいいじゃん」

「えー? どれ?」

 悩むことで頭が一杯になっていて、後ろから突然聞こえてきた声に、普通に返事をしてしまった。振り返って初めて、すぐ真後ろで同じように冷蔵庫を覗き込んでいるオレンジ色の髪をした少年に、軽く体が跳ね上がるほど驚く。

「うおっ! びびったあ。いつ来たの、シシィ」

「今さっき。何か、お前のところに面白いのが来てるって風達が教えに来たからさ。からかいに来た」

 驚きに声を高くする俺を少しも気にすることなく、あっさりとシシィが言う。今更言っても仕方ないけど、出来たらシシィも来る時は、玄関からチャイムを鳴らして入って来てくれないだろうか。時間も場所も構わずいきなりぱっと現れられるのは、なかなか心臓に悪い。

「面白いのって…。お前、罰当たるぞ」

「はっ、人の子じゃあるまいし」

 呆れて言えば、シシィは吐き捨てるように軽く笑った。その笑い顔のまま、俺を押し退けるようにして、冷蔵庫のポケットから牛乳パックを取り出す。

「犬の子っつったら、これっしょ」

「あ、そっか。その手があったか。すごいじゃん、シシィ」

 渡された牛乳パックを見ながら、素直に感心する。さっき、スーパーで買ってきたやつだ。特売のやつがなかったからどうしようかなと思ったけど、買ってきておいて良かった。

 早速、牛乳を平皿に注ぐべく動く俺の横で、シシィはふわっと宙に浮きあがって得意げに胡坐をかく。

「だーろ? すごいだろ? 三百年閉じこもってた誰かさんと違って、オレはずっと人の子に関わってきたからね。人の子が犬の子や猫の子に、それ与えてるの何度も見たもん」

「へえ」

「だからさ。銀の姫との契約が終わったら、お前、オレのになれよ」

「いや、話、全然繋がってないから」

 何がどう『だから』なのか、全く分からない。悪いようにはしないからさー。と、しつこく言い寄るシシィを半分無視して手を動かしていると、喋り声を聞きつけたのか、はたまた気配で知ったのか、部屋から怪訝そうなフィーの声が飛んできた。

「シシィ?」

 敷居の向こうから、上半身だけを仰け反らせてこっちを見ながら、フィーが首を傾げる。部屋に入るなり銀に戻した髪が、窓からの日差しを受けて何気に眩しい。

「どうした、呼んでおらぬぞ?」

「うっわ、つめてー。オレは呼ばれないと来ちゃいけないのかよ」

「まあ、忌憚なく言えば、そうだな」

「おおーい、そこは嘘でも否定するところだろ。いくら銀の姫でもさあ」

 宙で胡坐をかいたまま、シシィが肩をがっくりと落として口を尖らす。と、フィーの横から、ぴょこんと尻尾を立てたゴロウさんが姿を見せた。

「おお、これはこれは、風伯(ふうはく)殿。お変わりないのう」

「あはははっ。そっちは、お変わりありまくりだな。何、その尻尾。ちょっと触らせてよ」

 途端、不満げな顔から一転して、心底愉快そうに笑いながら言うと、シシィはすいすいと部屋のほうへと飛んでいった。どうやら、シシィとゴロウさんも知り合いらしい。

 シシィは宙に浮いたまま、ゴロウさんを片手でぞんざいに持ち上げるやいなや、ゴロウさんをひっくり返して、尻尾やら耳やら足やら腹やらで好き勝手に遊び出す。その様子を目に、今度はフィーが口を尖らせる。

「シシィ。そなたはもう、ほんにいつまでも子供のように。もそっと礼儀というものを身につけぬか」

「はいはーい」

「はいはい、ではない。降ろせ、危ない」

「だーいじょーぶだって」

 眉間に皺を寄せて小言を言うフィーには一切目を向けず、シシィはゴロウさんと、正確に言うなら、ゴロウさんで遊ぶのに夢中だ。その顔の、まあ楽しそうなこと。本当に無邪気というか、怖いもの知らずというか、何も考えていないというか。相手は神様だというのに。

 呆れ返る俺の気持ちを代弁するかのように、フィーが肩を竦めて溜め息を吐く。

「おい、真生。お主がおらねば始まらぬ。早う来い。このままではシシィが好奇心に負けて、誘いの神の身体まで壊しかねん」

「うん、今行く」

 今にもゴロウさんを落としかねないシシィの乱雑な手つきに焦って、俺は湯飲みと平皿を載せたお盆を手に台所を離れた。

 

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