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【 06 】 - 1

 

「心配したって、しょうがないもんな。気を揉んだところで、俺、何にも出来ないし」

 肩を竦め軽く言えば、フィーは慰めるような笑みを浮かべて返した。

「今度ばかりは何も出来ぬとて仕方あるまい。相手が嫦娥では、分が悪過ぎる」

 どうやらうまく誤魔化せたらしい。それをよしとして、話題を変える。

「そうだ。気になってたんだけど、ジョウガって何なわけ?」

「己に負けて、道を誤った愚かな元神だ」

「神様なの?」

 てっきり幽霊とか妖怪的なものかと思っていた。そういえば、さっきシシィも神魂崩れとか言っていた。

 やや目を大きくした俺を見ながら、フィーは淡々とした声を返す。

「元、な。その昔、契約を破ったがために呪を受け、もはや天に還ることが叶わず、かといって星に沈むことも我慢ならず、偽りの月を己の宮として篭り棲んでおる哀れな女よ」

「偽りの月?」

「月の絵だ。そこが嫦娥の宮……、正確にいうならば月に纏わる絵すべて、嫦娥の宮と言われておる。特に、月樹を描いた絵がお気に入りでそこにいることが多い。無論、月樹など人間の想像の産物だがな。だがその木の傍には、桂男という美しい男がおって、」

「それも神様?」

 人名と思わしき単語に反応して、口を挟む。フィーは小さく笑って、首を横に振った。

「いいや。桂男も月樹と同じ、人間の想像の産物だ。月樹の番人で、とかく容姿が美しい男らしい。月樹の番人であるその男は当然、月樹が描かれた絵に一緒に描かれることが多く、ゆえに嫦娥はそこを好むのだ」

「ふうん。美男子が好きってこと?」

 話を頭の中で整理しながら尋ねれば、フィーは軽く息を吐き、呆れたような口ぶりで答えを返した。

「美男というか、あやつの場合、美そのものへの執着が強いのだ。男女関係なく、美しいものはすべて自分のものであり、尚且つ自分より下位でなくては我慢ならぬ。目に入った美しいものが男ならば、術で己の虜とし、自分の側、つまり絵の中に引きずり込んで精尽きるまで傍に侍らせ、女ならばその場で命を奪い、その精を自分のものとする。そうやって古来よりずっと、己の枯れゆく精気を満たし保っておるのだ」

 一瞬、ホストクラブで豪遊する、ちょっと肉付きのいい金持ちマダムを想像してしまった。だけど、金持ちマダムは間違っても命までは取らない。

 それにしても皐月さんときたら、そんな絵まで所持しているとは。その嫦娥って元神様の存在を知った上でのことだろうか。アオ達をランプに封印したり、絵の中に櫛を出し入れできるくらいだから、普通に知っていそうだ。本当に一体何者なんだ、あの人は。

 皐月さんのことを考える俺の傍で、フィーもまた同じようなことを考えていたらしい。しかしまあ、と、言葉を続けた口から皐月さんの名前が出る。

「皐月が嫦娥のことを知ってその絵を手元においておるのか、はたまた何も知らずに絵から呼ばれたのかは分からぬが、何にせよ、お主達が今まで無事でよかった」

「まあ、皐月さんはともかく、俺は別に美男子じゃないし」

 あぐらを掻いた足を組み直しながら、思ったまま返す。別に自分を卑下しているわけじゃない。本当の事実だ。だけど、そんな俺を目に、フィーは目元と口元を柔らかく緩めた。

「お主は若い。若さというものは、それだけで美しいもの。まあ自身が若いうちは、分からぬことであろうがな」

 涼しげな微笑と共に、声も柔らかくフィーが言う。そのフィーが妙に大人びて見えて、すぐそこにいるのに何故か急にすごく遠くに思えて、俺はどこか、精神的な居心地の悪さを覚えた。

 実際フィーは俺が生まれるずっと前から、それこそ地球誕生の時代から生きているわけで。だからフィーが俺より大人びていたって、それは当然のことで。だけど、フィーのその背後にある長い時間を改めて感じると、何となく、引け目のようなものが湧いてきて、やけに居心地が悪かった。そんな引け目なんて、感じる必要はどこにもないはずなのに。

 自分でもよく分からないその居心地の悪さを曖昧にそこに残したまま、そこから目を逸らすように話題を変える。

「その嫦娥って元神様は、なんで契約を破ったの?」

 話題変えと同時にやや顔を逸らした俺を不審に思うこともなく、フィーは変わりない調子で口を開く。

「さあなあ。天に還りたかったとか、人間に騙されたとか、色々言うが、本当のところは本人にしか分からぬ。それに理由がどうであれ、契約を破ったことは事実だ。その証として嫦娥は、この星で最も醜いと己が忌み嫌っていた動物の姿に成り果てた。二度と元の美しい神女には戻れぬし、未来永劫天にも還れぬ」

「未来永劫って……。厳しいんだな。もしかしたら、破りたくて破ったわけじゃないかもしれないのに」

 ほんの少し同情して言えば、きっぱりとした声がすぐさま返ってきた。

「我らの契約は人間の約束事とは違う。一度己のミトラを差し出せば、すべての行動がヴァルナによって監視され、何一つとして見逃されぬし決して許されもせぬ」

 断固とした強い口調ではっきり言って、フィーが少しだけ口調を緩める。

「一種の呪いと考えたほうが、お主には分かりやすいかもしれぬな。魂が残っただけ、嫦娥は運が良いほうだ。その代わりに、羿が、二度と星に降りること叶わぬものになったが」

「げい?」

「嫦娥の夫神だ。契約の相手でもある」

「え、何。その元神様は、自分の旦那さんとの契約を破ったの?」

 想像していなかった事実に、多少驚いてフィーを見る。フィーは軽く肩を竦めると、淡々と言って返した。

「そうだ。私が知っておる限りでは、仲睦まじき夫婦神であった。しかし契約が破られたために、嫦娥は未来永劫天に還れず、羿は二度と星に戻れぬものとなった。どちらにしても望んでいた結果ではなかろうが、過去は変えられぬ」

 片方は未来永劫天に還れず、片方は二度と星に戻れない。つまり、その神様夫婦はもう二度と会えないということだろう。何の契約をして、なんでその契約を破ったのか、俺には分からないけど、仲良しの夫婦だったらしいのに。

 俺は、見たこともなければ今の今まで知りもしなかったその嫦娥という元神様について、思考に目線を沈ませた。

 元は確かに神様、それも美しい神女だったらしいのに、今や自分が一番醜いと嫌っていた動物の姿になって、絵に近づく人の精気を吸い取って生きている。俺の感覚から言って、もはや妖怪の類だ。彼女は何故、契約を破ったのだろう。元神様なら、契約の恐ろしさだって充分に知っていたはずなのに。そうまでしてでも、したい何かがあったのだろうか。旦那さんを裏切ってまで。それとも、本当に、誰か酷い人間に騙されたのだろうか。神様なのに? 人間に騙されるの? 神様が?

 神様っていうのはもっと、なんていうかこう、絶対の存在だと思っていた。人間みたいに他人の嘘や建前に翻弄されることも、自分の中の善と悪の心に揺れたりすることもなく、正しい善の道だけを必ず全うする、そんな凄い存在だと。

 だけど、その嫦娥という元神様は、人間に騙されたにしろ、そうじゃないにしろ、過ちを犯した。結果的に旦那さんまで道連れにして、望まない未来を築いてしまった。

 もしかしたら俺が思っていたよりずっと、神様という存在は人間に近いのかもしれない。弱くて愚かな生き物と、そう自分達を理解していながらも、それをどうすることも出来ない俺達人間に。こんな考え、神様に対して不遜かもしれないけど。

「………神様も、いろいろなんだな」

 つい、ぽつりと漏らした思いに、フィーがふっと息を吐くように笑う。

「人間とて、いろいろであろう? 勤勉な者もおれば怠惰な者もおるし、争いを好む者もおればそれを嫌う者もおる。愛に溢れた者、愛を憎む者、正直者、嘘つき。あげればキリがない。皆ばらばらだが、それぞれが皆、己の考えを持ち、それぞれ己の心で生きておる。神とて、それは同じだ」

 その言葉に顔をあげて、フィーを見る。実際は、その顔にシシィを思い浮かべていた。

「精霊も…?」

 

 

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