【01】- 1
ピーターパンに出てくるティンカーベル。
アラジンと魔法のランプに出てくるジン。
グリム童話のルンペルシュチルツヒェン。
経緯や結果がどうであれ、彼らはみんな、人間を助ける。彼らだけが持つ不思議な力を使って、人間の手助けをする。少なくとも俺が子供の頃読んだり、聞かせてもらったりしたお話の中では、彼ら精霊とは、そういうものとして描かれていた。
生後二十年目にして今、切々と思う。
お伽噺なんて、大嘘だ。
「茶」
簡潔に要求だけを告げた声の主が、こっちを見ることもなく、湯飲みだけをずいっと突き出す。
清々しいまでに横柄なその態度に、お前はどこの亭主関白親父だと突っ込むより早く、派手なくしゃみが出た。
「っ、ぶえっく、っしょいっ!」
「汚い。唾を飛ばすな、無礼者」
「………すみませんね。誰かさんのおかげで、すっかり風邪ひいちゃったみたいで」
ずずっと鼻を啜りつつ、嫌みたっぷりの目を向けるも、斜め横に座る少女―――少女といっていいものか甚だ疑問だけど―――は、気にするふうもない。蕩けそうな顔で口の中の羊羹をゆっくり飲み込んでから、やはりこっちを見ることなく、嗜めるような声だけを返す。
「そうやって何でも人のせいにばかりしておると、将来ろくな大人にならぬぞ、真生(まさき)」
「ゲームに負けたくらいで、あんな嫌がらせするようなやつにだけは言われたくねえよ」
「は。嫌がらせとはまた大袈裟な。ちょっとした気分転換を試みただけだというに」
「気分転換に俺を使うな! 大体なあ、お前……」
「ああ、五月蝿い。茶はまだか? はよう寄越せ」
偉そうに顎をしゃくってそう催促する間も、新たな羊羹に噛り付くのを忘れない。まるでチョコバーのような、和菓子にあるまじきその食べ方を今更注意する気はないけれど、やはり日本人としては、どうにも閉口してしまう。
そんなことにはお構いなしの彼女は、羊羹で埋め尽くされている口から、したり顔でものを言う。
「ふぁいふぁいおるひふぁ、ひおろはらひゃららふぉひはえれらふはら、」
「とりあえず、食うか喋るかどっちかにしろ」
呆れて返せば、とりあえず食う方に専念したらしい。ハムスター並みに膨らんだ頬をもごもご動かしながら、羊羹の濃厚な甘味をじっくり堪能しているのだろう、うっとりと目を閉じている。その顔の幸せそうなこと。俺とは素敵に正反対だ。
それにしても、習い性とでもいうのか。こんな理不尽な相手にまで、請われるがままにお茶を淹れてやっている自分が悲しくなってくる。
小さく溜息を吐いた俺を尻目に、いかにも美味しそうに喉を鳴らして羊羹を胃袋に収めた彼女は、改めて言葉を寄越した。
「大体お主は、日頃から身体を鍛えておらぬから、これしきのことで風邪などひくのだ。もう少し自己鍛錬に励め。情けない」
「いやいやいやいや。三月のこの時期に頭から冷水ぶっかけられて、全身びっしょびしょにされたら、誰だって風邪ひくから」
「そうか? 私はひかぬぞ?」
「そりゃあ、お前はそうだろうよ」
いけしゃあしゃあと言って返す態度に、かちんときて、湯飲みと一緒に嫌味を渡す。
「つーか、生身の人間と幽霊もどきを同じ物差しで計るなっつうの」
その瞬間、これまで一度もこっちを見ようとしなかった彼女が、その青い目で、ぎろりと俺を見据えた。
「だーかーら。何度言えば分かるのだ、お主は」
むすっと鼻の穴を膨らませて睨んでくるその、どきりとするほど青い目。
俺はどういうわけか、どうしても、この目が苦手だ。
なんとも説明しがたい居心地の悪さに、微妙に目線を逸らす。彼女はそれを知って知らずか、こっちを見据えたまま、声を尖らせた。
「私は、四大精霊のひとつに数えられる水精の化身ぞ? お主達人間が地上に栄えるより遥か以前からこの星と共にある、いわば、神秘の生命体なのだぞ? それを、幽霊呼ばわりするなど無礼にも程があろう」
憤然としてそう言われたものの、手や口の周りを見るからにベトベトにして羊羹を齧っている、神秘性の欠片も感じられないような女の子をその四大何とかの仲間だと認めるほうが激しく失礼な気がする。
とは言え、アニメやゲームの世界ならいざ知らず、現実世界ではまず有り得ない綺麗な銀色の髪をして、都合よく姿を消したり宙に浮かんだり出来る超非現実的な女の子を、普通の人間として認知するのも無理があり過ぎるけれども。
欝とした気分で、左手に嵌められた指輪を見やる。
目が覚めるような青い石の他は何の装飾もない燻し銀のそれは、この世に二つとないアンティークで、全ての元凶。精一杯力を込めて引っ張ってみても、石鹸でヌルヌルにしてみても一向に外れない。ありとあらゆる方法を試してみたけど結果は同じ。彼女の話によると恐ろしく迷惑なことに、指を切り落とすか、彼女の念願を成就させるか、どちらかの方法を取らない限り、この指輪を外すことは半永久的に不可能らしい。
ふんと鼻を鳴らし、彼女はお茶を啜る。俺の欝など、何処吹く風だ。何故こんなことになってしまったのだろうと、我が身をいくら哀れんでみたところで今更状況は変わらない。すべては、あの人のせいなのだ。
「ところで、真生」
ずずっとお茶を啜る合間に、至極どうでもよさげに、彼女が声を投げてくる。
「なに?」
気分同様下がった肩もそのままに、惰性で声を返せば、彼女はやはり、どうでもいいのだがな。と、前置きして続けた。
「お主、そろそろバイトの時間ではないのか?」
「え? あぁうん……って、もう四時半過ぎてんじゃん!」
時計を見て、本気で慌てた。
「やっべ! ちょ、そういうことはもう少し早く言ってよ、頼むから!」
「知らぬわ、阿呆」
バイトは五時からだけど、アパートからバイト先のコンビニまで自転車を飛ばしても、約二十分はかかる。今すぐ出てもギリギリ間に合うかどうか際どい。
弾かれたように立ち上がり、上着を引っ掴んだ俺とは対照的に、彼女はゆったりと座ったまま、まだお茶を啜っている。
「励めよ、勤労青年。今夜のおやつは栗羊羹でよいからな。あ、芋羊羹でもよいな」
「それこそ知るかよ。てか、さっさとしろ」
「ああ、それから晩御飯だが、また残り物の弁当を貰ってくる気なら、あれがいい、あれ。何といったっか、あれは」
「いいから、時間がないんだって」
「あのほら、あれだ、あれ。豚の肉を油で……いや、鳥の肉だったか?」
こっちの焦りを全て無視して、彼女は暢気に小首を傾げてみせる。時計の針は、情け容赦なく進んでいく。
こめかみの辺りが、ひくひくと引き攣るのが自分でも分かった。
「豚カツでも唐揚げでも、何でもいいから早く戻れ! 大体、実体もないくせに、なんで三食食っておやつまで食う必要があんだよ、お前は!」
「あああああ、五月蝿い。喧しい声を出すでない。これゆえ心に余裕がない人間はいやなのだ」
俺の怒声を遮るように両手で耳を塞ぎ、こざかしい態度でそう言うが早いが、すっと吸い込まれるようにして、彼女は指輪の青い石の中に消えた。
初めて見たときには腰が抜けるほど驚いたその光景も、今はもう別に何とも思わない。慣れというものは、本当に怖い。
彼女が入ったことで、より一層青みを増した感のある石を確認するようにちょっと眺めてから、俺は慌しく玄関を後にした。
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