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【 05 】 - 1

 

 夕暮れの空はどんよりと曇っていて、その空の下、行きかう人も車も、その喧騒も、いつもより暗く沈んで感じた。

 雨はいつのまにか上がったらしく、濡れたアスファルトや歩道の水溜りに、その名残りを残すだけになっていた。

 電灯がつき始めた道を、フィーと並んで歩く。間に会話は、ひとつもなかった。俺は喋る気分じゃなかったし、フィーは明らかに怒っていた。

 恐らく多分、服が乾けばすぐに病院から出るものと思っていた俺が、服が乾いてもまだ病院に留まり、孝のおばさんが来るまで孝に付き添ったことが怒りの原因だろう。いつものようにはっきりと文句をぶつけてくるでなく、ただ静かに、怒りに満ちた目で黙りこくっている態度から、真剣に怒っていることは分かったけど、だからと言って、フィーの言うとおりにする気は更々なかった。

 頭を六針、腕を合計十八針も縫った孝は、麻酔でよく眠っていた。俺はその寝顔を見ながら、フィーの話を整理して考えようと何度もしたけど、だめだった。

 信じたくないというよりも、信じられない気持ちのほうが大きかった。穢れとやらが孝に憑いていて、そのせいで孝は怪我をして、挙句には死ぬなんて、そんなホラー映画のような話、信じろというほうが無理だ。階段から落ちたのだって、窓ガラスが突然割れて降ってきたのだって、確かに不運ではあるけど、どちらとも不慮の事故だ。怪我のせいで入院は少し長引くだろうけど、すぐに元気に退院して、いつもどおりの日常に戻るに決まってる。もしかしたら、今頃既に目を覚ましていて、頭を縫うために髪を剃られた自分を鏡で見て、能天気に嘆いているかもしれない。きっと、そうだ。そうに決まってる。孝が死ぬとか、そんな馬鹿げたことがあるわけがない。

 そう強く思うのに、その裏で、フィーの話を完全に否定できずにもいる。

 今日まで一緒にいて、フィーが嘘をついたのは、指輪の契約の時だけ、あの一回きりだ。生意気で横暴で腹が立つところも多々あるけど、基本的にフィーは、自分の感情に素直で、根が真っ直ぐだ。それに、あれで結構思慮深い一面もあるし、意外と優しいところもある。少なくともこの二ヶ月で俺が知っているフィーは、人の生死に関する笑えない冗談を軽々しく言うようなやつじゃない。 それに―――…。

 何より俺が、完全に否定することが出来ずにいる一番の理由は、フィーには、わざわざあんな嘘をつく必要が、どこを探してもないことだ。

 

 信号が変わって、音楽が流れ出す。歩き出す人の波に、俺達もまた動き出す。

「フィー」

 顔は向けずに呼びかけた。フィーは返事をしなかった。まだ怒っているのだろう。気にせず、続ける。

「お前の話が仮に本当だとして、孝がその穢れってやつに取り憑かれているなら、お祓いとかで何とか出来ないの?」

 ずっと考えていたことだった。その手の方面のことは詳しくないけど、悪いものに憑かれているなら、お寺とか神社とかで祈祷してもらえば何とかなるんじゃないだろうか。孝は能天気だけど、気が小さいところもあるから、この不運続きの中、厄払いしたほうがいいと勧めたら、多分素直にそうするだろう。フィーの話を全面的に信じるわけじゃないけど、孝がそうしてくれたら、俺にとっては気休めにはなる。

「お坊さんとか、霊媒師の人とかさ。そういう人にお願いして………」

「お主は、勘違いをしておる」

 ようやく口をきいたフィーの声は、固く尖っていた。

「穢れは、お主達がいうところの幽霊や悪霊ではない。人間に祓えるようなものではない」

「でも、元は魂なんだろ? それなら……」

「霊と魂は別物だ。混同しておるようだが、霊は念であって、魂とは違う」

「ねん?」

「念は、魂が輪廻の渦に還る際に浄化しきれずに残った、いわば魂の残り滓だ。残された念は、己が生まれた世界を彷徨い、大抵は時と共に消滅するが、念の深さによっては形を持ったり力を持ったりする。本能を持たぬ思念体、それがお主達のいう霊だ」

 前を向いたまま、フィーは淡々と答える。その横顔は、冷たさを感じるほど厳しかった。

「単なる思念体であれば人間でも祓えようが、穢れは本来、魂だ。大いなるものから本能を授かった、ひとつの生命体だ。人間の力で、どうこう出来るものではない」

「じゃあ、どうすればいいんだよ」

「言うたはずだ。どうにも出来ぬ」

 淡々と吐き捨て、フィーが顔をあげる。きつく見据えてくる青い目が、静かに燃えるように揺らいでいた。

「真生。私の話を信じぬのなら、それでもよい。今はもうこれ以上、私に失望させるな」

 聞いたことのない抑揚のない声で、フィーは突き放すように言った。 その声と物言い、それに加えて生じてくる、いつもの理由のない罪悪感に、ただでさえ混乱している思考がまた混乱してくる。

「なんだよ、失望って」

 混乱することばかりで、苛々する。意味なく叫び出したくなるほど、頭の中がごちゃごちゃで、どうしようもない。フィーに当たっても仕方ないのに、全部が全部フィーのせいのような気までしてくる。一人になりたい。切実にそう思った。

「俺が言うこときないから? んなの知るかよ。勝手に失望でも何でもしてろ。俺には関係ねえ」

「………お主はどこまで、阿呆なのだ」

 だけど、苛々に任せて放った言葉に返ってきた声は、さっきとは全く違うものだった。

「お主達は、……人間は何故そんなに、阿呆ばかりなのだ。すべてにこれほど愛されておきながら、何故、そこまで阿呆になれるのだ」

 まるで、泣くような声だった。 今にも泣き出すんじゃないかと思うほど、フィーは声を震わせていた。

「私を誰だと、何だと思うておる。かつての私ならば、穢れなど忽ちに浄化してやれた、あれも救えた。それが今出来ぬは、何故だと思う? それが出来ぬが、どれほど口惜しいと思う? それでも愛しいと、慈しむしか出来ぬこの身が、どれほど哀しいと思う?」

 訴えるように、青を湛えた目が揺らぐ。雫が零れないのが、不思議なくらいだった。

 俺は声が出なかった。フィーの声が、その表情が、針のように耳と目に刺さる。込み上げる感情に、胸の奥が深く抉られる気がした。

「あれほど愛されておったのに。今尚これほど、愛されておるのに。何故、お主達は……」

 見つめる先で、哀しげに青い目が狭まり歪む。

 見ているだけで、こんなにも苦しく、辛くなる表情があることを、今、初めて知った。

「私とて、救ってやれるものならば救ってやりたいと心底思うておる。それが、私に授けられた本能だからだ。だがお主達阿呆が、何も顧みず私を、それすら出来ぬ身にした。どれほど無力さを、虚しさを味あわせれば気が済むのだ。知らぬ関係ないと申すならば、今すぐ私に力を返せ。お主達阿呆が己のためだけに奪い穢し捨てた母を返せ。何も、何も出来ぬくせに、しようともせぬくせに、自分達の声だけが聞き遂げられると、何故そういつも思うのだ。頼むからもうこれ以上、私に、」

「真生くん?」

 不意に耳に割り込んできた声が、フィーの言葉を遮った。

 顔をあげた先に、彩乃ちゃんがいた。

 

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