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【 06 】 - 1

 

 きっと、誰でも一度は思ったことがあるはずだ。翼を広げ大空を舞う鳥のように、風に乗って自由に空を飛んでみたいと。

 かくいう俺も、退屈で眠たい授業中とかに、よく窓から空を見上げて思ったりした。人間には不可能なだけに余計、その行為は素晴らしく優雅に思えて、さぞ心地いいに違いないと、夢見る少年のように漠然と憧れを信じていた。

 ―――現実はいつだって、俺に厳しい。

 

「ちょっ! 無理だって! 沈む沈む、これ絶対、沈む!」

 轟音の中、あっぷあっぷしながら必死に顔を上に向けて、少し前方にいるフィーに訴える。ある意味、地上を遥か見下ろす人生に一度のチャンスだというのに、下を見る余裕なんて微塵もない。

「だから、沈まぬと何度も言うておろうが。五月蝿い」

「だって!」

 反論の声をあげる、そのちょっとの隙にも体が沈んで、鼻と口に強風が容赦なく流れ込んでくる。気道が塞がれて、呼吸すらままならない。苦しさに両手両足をばたつかせ、死ぬ物狂いで宙を掻く。殴りつけるどころじゃない風の強さに、体が千切れ飛びそうだ。優雅さは勿論、心地よさなんかあったもんじゃない。

 一人涙目になっている俺をちらりと見、フィーが呆れた声を投げてくる。

「そうやってもがくゆえ、余計に体が重く感じるのだ。じっとして、大人しく流されておれ」

 そんなこと言われても、一瞬でも腕や足の動きを止めようものなら、流されるどころか、すぐさま沈み込んで窒息する予感しかしない。

 フィー達は風の道って言っていたけど、これは道じゃない。川だ。それも超激流の。今俺は、怒涛のような激流の急流下りを、カヤックとかに乗らず生身一つでやっているのと同じだ。流れているのは、水じゃなくて風だけど。

「お主、出る前に、泳ぎは得意だと言うたではないか。風に乗るのも基本は同じぞ?」

「言った、言ったけど!」

 それはプールや、せいぜい波の穏やかな海での話だ。こんな超激流の中を泳ぐなんて、どんな田舎育ちの腕白坊主でも、ましてやオリンピックに出るような水泳の達人でも、絶対無理だ。そう言って返したいのは山々だけど、いかんせん、もう顔が半分激流の中なので、口を開けない。

 風に溺れる俺の無様な姿に、フィーは大きな溜め息を吐き、隣にいる少年に向けて顎をしゃくった。

「シシィ、真生に手を貸してやれ」

「いいけど」

 二つ返事で少年が、すいすいと風の川を泳いでくる。そして沈みかけている俺を前にして、手を伸ばすではなく、暢気に指をさす。

「手を貸す代わりに、こいつ貰っていい?」

「しつこい。一度だめだと言われたら、すっぱり諦めぬか」

 フィーの返答に、ちぇっ。と、少年が舌打ちしてぼやく。

「何だよ、ケチ。折角、淵まで付き合ってやろうとしてんのにさあ。大体お前、」

「喋っ、ない、で、早く!」

 風に呑まれ呑まれ、必死に訴える。それにしても、こいつはなんで、そんなに俺が欲しいんだろうか。ていうか、そんなに欲しがるくらいなら、さっさと助けてくれ頼むから。

 心の声が届いたのか、やっと少年が、おざなりに俺の腕を掴んで引っ張り上げる。すかさず俺は、少年にしがみついた。こんなに肩で息をするほど、息切れしたのはいつぶりだろうか。

 ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す俺を余所に、少年はフィーに向かって言葉を続ける。

「お前ほんと、分かってんのかあ? いくら最上古精でも、お前はもう魂持ちなんだぞ? しかもその上、人の子を連れて行くなんて。精霊王の野郎が怒るぜ、絶対。賢者だってきっと、黙ってないよ」

「賢者は何も言わぬだろう」

 あっさりとしたフィーの返答に、途端、少年は声を曇らせた。

「そりゃあ…、賢者は眠ってからもう永いけどさあ……」

「そういう意味ではない」

 振り返り、フィーが少年に優しい笑みを向ける。その口から出た声も何となく、優しかった。

「賢者は知っても、咎めぬだろうと言うたのだ。それに私の魂は指輪の中だ。封印が解けぬ限り、害はない。心配いらぬ」

「人の子は?」

「それについては、考えがある」

 少年の問いにさらりとそう答え、フィーはまた前を向いた。少年は少しフィーの後姿を眺めた後で、諦めたように息を吐いた。

「まあ、何でもいいけどなあ。せいぜい、あの野郎に見つかって、また五百年の奉仕契約させられないよう、祈っておいてやるよ」

「………あやつに見つかるなら、まだよいのだがな」

 ぽつりと小さく、本当に小さく、フィーが呟いた。この風の轟音の中、聞こえたのが不思議なくらい、小さな声だった。少年は聞こえなかったようで、えー? と、訊き返す。フィーはそれを無視した。

 少年が肩を竦め、会話が途切れてやっと、俺は口を挟むことが出来た。ようやく呼吸が落ち着いて、喋る余裕が出来たのもある。

「なあ、今更だけど、どこに行くの?」

 その問いに、少年が驚いたように、くるっと顔を向けた。

「なんだ人の子、お前何も知らないでついて来てるのかよ」

「うん。まあ…、そう」

 軽く非難するような少年の口調に、戸惑いつつ頷く。少年はやっぱり、非難するように言った。

「母の胎内、はじまりの場所。オレら精霊だけじゃなく、神達にとっても、何より尊い禁断の場所だ。最上古精しか行けないし、本当なら、人の子なんて絶対ぜーったい行ったら駄目な場所なんだぞ」

「ふうん……」

 いわゆる、聖地みたいなものだろうか。考えながら、ずっと気になっていたことを口にする。

「あのさ。さいじょうこせいって何?」

 少年は今度は、あからさまに呆れた顔になった。

「お前、本っ当に何も知らないのな。………まあ、人の子じゃ仕方ないか」

 呆れ半分、諦め半分と言った感じに軽く溜め息を吐いて、少年が続ける。

「最上古精ってのは、この星の誕生時に、その始精根から派生した四源精が、それぞれ結晶をなして生み出した始原精霊のことだよ」

「? しせいこん?」

「大いなるものがこの星に定めた生の理、この星の淵源みたいなもんさ。オレが知ってた人の子は、ひとまとめにアルケーって呼んでたけど。ああ、リゾーマタって呼んでた人の子もいたっけかなあ」

 困った。教えようとしてくれるのは有難いけど、こいつの説明は難しい。フィーがいつもどれだけ分かりやすい言葉を選んで俺に色々説明してくれていたか、改めて気づくほどに、少年が用いる単語が殆ど分からない。

「とにかく、この始精根から派生した気、水、地、火の四源精から、大気の母、水の姫達、地の賢者、火の王が生まれた。そこにいる銀の姫は、水の姫の一人だから最上古精だ。ちなみにオレは、上古精な。大気の母の息吹から生まれた風の息子だ。お前気に入ったから特別に、シシィって呼んでいいぞ」

 理解が追いついていない俺を尻目に、少年が言って、からりとした笑顔を向ける。その流れで、俺も笑って言ってみる。 「そりゃ、ありがと。俺のことも、人の子じゃなくて、名前で呼んでくれていいんだけど」

「ははっ。数十年ぽっちで精気が尽きる人の子の名前なんて、いちいち覚えてられっかよ」

 少しの躊躇いもない笑顔で、拒否された。うん、まあ、いいけども。

 精霊からしてみたら、俺達の寿命はよっぽど短いんだろう。話から察するに、フィー達最上古精とやらはどうも、地球が誕生してすぐに生まれたっぽいし、それに比べたら、人間の一生なんて、瞬き程度の時間でしかなくて当然だ。………ん? 待てよ。地球って確か、出来て四十六億年くらい経つんじゃなかったか? え。じゃあ、フィーって………。

「ところでさあ」

 フィーの実年齢について考えを膨らませていた横から、シシィが言葉を投げてきた。

「なんでお前達、危険を冒してまで今更、母の胎内に行こうとしてるんだ?」

「あ、それは。俺の友達が、穢れに憑かれてて……」

 答えながら、ぐっと拳に力を入れた。脳裏に浮かぶ能天気な顔に、無事でいてくれよ。と、真摯に願う。実際に何をしたらいいのか未だに分からないけど、絶対生きて戻ってみせる。孝のためにも、皐月さんや他の人達のためにも。

 だけど、内心で熱い思いを滾らせる俺とは反対に、シシィは気を削がれたような声を出した。

「ふううん。つまりお前の理由は、人の子かあ。なあんだ」

「え……」

 その声に、自然と顔が向く。

「ま、人の子が人の子のため以外で動くわけないもんな」

 シシィは、特に悪びれるわけでもなく、あっさりとそう言った。俺は一瞬、言葉が出なかった。何も返さない俺を気にするふうでもなく、シシィは前を向く。

 その時、フィーが唐突に大きく言った。

「お喋りは終わりだ。着くぞ」

 

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