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【 07 】 - 1

 

「うわっ!」

 突然の大きな揺れに、バランスを崩す。そうじゃなくても極度の緊張後で膝が笑っていて、しっかり立ててはいなかった。ぐらりと傾いた体を支えようと、咄嗟に腕を伸ばす。

 自分を擁護するわけじゃないけど、こういう場合、目の前のものに咄嗟にしがみつくのは、二本足で立つ動物としてある意味致し方ない行動だと思う。たとえ、しがみついた相手が、自分よりか細い女の人であっても。

「……おい」

「へ?」

 耳元で聞こえた声に、反射的に瞑ってしまっていた目を開けた。

「着いたぞ」

 がっちりと回した両の腕の中、フィーが顔だけをこっちに向ける。その動きに沿って、銀色の髪がさらりと俺の頬を擽った。至近距離なんてもんじゃない超近距離で、青い目が俺を見上げて瞬く。思わず、目が大きくなる。

「ごめんっ!」

 言うが早いが、俺は焦って思いっきり体を離した。その拍子に、ふらふらの足がもつれて、尻餅をつく形で派手に転んでしまう。コンクリートの硬い反動に、痛っ。と、あげた声が夜の静寂に響いた。

 我ながら、本当に情けない。見下ろしてくるフィーも、呆れをそのまま顔に浮かべている。

「お主、大丈夫か、本当に」

「う、うん。大丈夫、ちょっと驚いただけ」

 曖昧に笑ってそう返しながら、同じことを自分に言い聞かせる。そう、ちょっと驚いただけだ。なんてことはない、別に。ただちょっと、そう、ただちょっと―――…。

「まあ、あれだけのことを一度に経験したのだ。体が持たぬのも仕方あるまい」

 憐れむように言って、フィーは肩で息を吐いた。そして、覚束ない足で立ち上がる俺に向かって、その両腕を迎えるように広げた。

「来い、私の精気をやる」

「え」

 一瞬にして、俺は固まった。

 精気をやる。その言葉に、思い出す行為はひとつしかない。固まった体とは裏腹に、脳が著しく活発に動き出す。

「……いっ、いや、いい! 大丈夫!」

「何を言うておる。ぼうふらみたいにふらふらしおって」

「いやだって…、いやいやいや、やっぱ駄目だ」

「いいから、早よう来ぬか」

 いいわけないだろ。内心、そう叫びたい気持ちで一杯だった。俺が知っているいつものフィーならともかく、………いや、それはそれで問題あるけど、それはこの際横に置いて、とにかく今のフィーとあれはまずい。いくら頭の中で、羊羹に食らいつく色気のいの字もない女の子を想像しても、実際に目の前にいるのは、しっかりと膨らみもあればくびれもある綺麗な女の人なのだ。うん。どう考えてもまずい。

 正直言って、あれは信じられないほど実に素晴らしく、最高に気持ちがよかった。同じことをされたら、多分また俺は暴走するだろう。というか、間違いなく絶対暴走する。このフィー相手に、それだけは絶対にまずい。絶対に駄目だ。

 一人頭の中をぐるぐるさせている俺を尻目に、フィーは焦れたように、つかつかと寄ってくる。その手が少しの躊躇いもなく伸びる。

「ぐずぐずするでない。ほれ」

「だああっ、ちょ、まっ、……え?」

 観念して閉じかけた目で、思わずぽかんとフィーを見た。フィーの両手は確かに俺の顔の両脇、耳辺りに添えられたものの、それだけで、フィーはそれ以上距離を詰めるでもなければ、動くでもない。

 怪訝さに眉を顰める暇なく、耳の奥深くで、雫が一滴落ちたような、澄んだ音が響く。途端、駆け抜ける清々しさと共に、瑞々しい活力が漲っていくのを全身に感じた。

「何を今更怯えておるのやら。以前にもしてやったろうに」

 俺の躊躇を怯えからだと思ったらしいフィーが、呆れたように肩を竦める。俺は拍子抜けして、ふわりと離れていくフィーの手をぼけっと目で見送った。活力を与えて貰ったばっかりにも関わらず、多少脱力して礼を言う。

「……ありがと…」

「ついでに結界も張ったゆえ、暫く私とお主の姿は、人間の眼には映らぬぞ」

 そのほうが都合良かろう。淡々とそう言うフィーには、当たり前かもしれないけど、俺がしたような動揺や焦りの色は少しも見えない。その、いかにも当然にあっさりした態度が、喉に引っかかった魚の小骨みたいにちくちく胸に刺さって、急になんだか変に面白くない気分になる。

 確かに、フィーにしてみれば、俺なんて意識するに値しない存在だろうし、あのキスだって俺を守るための、言い換えれば、人工呼吸の一種みたいなものなんだろうけど。事実、力の差は歴然だし、実際、俺はフィーを頼って守ってもらうことしか出来ないわけだし。

 でも、さっき、しがみつく形で抱きしめていたフィーの体は、確実に俺のそれとは違って。

 俺の腕にすっぽり収まるくらい小さくて、折れそうに細いのに驚くくらい柔らかくて、温かくて……。

 青い目を前にいつもの理由の分からない罪悪感がこみ上げるより早く、女の人なんだと、あの時初めて、フィーに対してそう感じた。

 別にだからって、何がどうこうってわけじゃないけど、一応俺も何の頼りにもならないにしろ男なわけで、なんかもう少しこう――――………。

 

 って、何を考えているんだ、こんな時に俺は。

 そんなことはどうでもいいだろう。今は、孝だろう。色々ありすぎて感覚がおかしくなってるんだ、きっと。とにかく、早く孝のところに行かなきゃだ、今は。

「で、ここはどこなわけ?」

 気を厳しく引き締めて、辺りを見回す。背の高いフェンスや、大きな給水タンクなんかを見る限り、どこかのビルの屋上だということは分かるけども。

「決まっておろう。孝がおる病院の屋上だ」

 ここから病院までどれくらいの距離だろうかと考えていただけに、フィーのその返事に、自ずと目が丸くなる。フィーは俺のその表情に、やや眉を顰めた。

「なんだ、その顔は。お主の目的は孝を救うことであろう?」

「そりゃ勿論。ただ、ついほんのさっきまで海辺にいたのにさ。ほんと、お前ってすげえなと思って」

 心からそのまま出た素直な言葉だった。その言葉にいつもの権高な表情を見せるだろうと思ったフィーは、だけど、そうはしなかった。

「凄くなどない。私など、たとえこの身に力が戻った今でも、かの御方には遠く及ばぬ」

 言い捨てた苦みきった声。その渋面。それだけで、フィーが何の話をしているか分かって、背筋に忘れかけていた恐怖が生々しく蘇った。人間の俺に、精霊の力の強弱が分かるはずもないのだけど、それでもあの視線の持ち主に、フィーやシシィとは根本的に違う、絶対的な強さみたいなものを感じたのは確かだ。

「お主の存在はもはや、かの御方の知るところとなった。いや、冷静に考えてみれば、契約時に既に知れておったはずなのだ。何故今日までこうして見逃されておるのか分からぬが、とにかくお主の命に関わることゆえ、この件は追々詳しく話そう」

 恐怖か緊張か、もしくはその両方の感情に、ごくりと唾を飲み込む。

 フィーは、俺のそんな感情を散らすように、表情を変えて顔をあげた。

「とりあえず今は、孝だ。あれが苦しんでおる。急ぎ浄化してやろう」

「うん。俺、何すればいい?」

 俺もまた感情を切り替え表情を引き締めて、フィーを見た。途端、フィーの顔が茶化すものに変わる。

「お主、何か自分に出来ることがあると思うておるのか?」

「………そう言われると物凄く立場ないんですけど」

 思わず、ぶすっとして目を狭めた。正直、耳にも胸にも痛い言葉だ。

「冗談だ」

 ふて腐れる俺をその目に映しながら、フィーがいつもの権高な表情で笑う。ちょっとむかっとくるものの、フィーはどっちの姿でも、この権高な表情で自信たっぷりに笑っているのがやっぱり似合うとこっそり思う。

「私に全力で守られてみせると啖呵を切ったのは、どこの阿呆だ。お主がおらねば、私一人では動けぬ。私の傍で、全力で私に守られておれ。それがお主のすることだ」

「分かった」

 権高にきっぱりと言い切ったフィーに、俺は大きく頷いて返した。

 いくら凄い力を持っているとはいえ、女の人に守られるだけって男としてどうだろうと思う気持ちも頭の隅にないとは言えないけど、今の俺に出来ることはそれだけなのだから、それを全力でやってやる。

 何が何でも、孝を失うわけにはいかない。改めて漲った決意に、俺は拳を強く握った。

 

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