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【 08 】 - 1

 

 触れた瞬間、稲妻のように、バチバチっと強烈な電流が全身に走った。手の肉が弾け飛びそうなその衝撃に、神経という神経が一斉に悲鳴を上げる。

 奥歯を噛み砕く勢いで食いしばって、手をそこに、ユキちゃんの上に踏ん張り留めた。手のひらが、焼け焦げているんじゃないかと思うほど痛い。堪えるべく、ぐっと目を瞑れば、無意識に滲んだ生理的な涙で睫が濡れた。

 頭の中に入り込んでくる映像を、逃がさないようしっかりと捕える。

 痛みにきつく閉じた瞼の奥で、古いフィルム映画のようにゆっくりと、頭の中で映像が回り始める。

 

 最初に見えたのは、やっぱり駅だった。

 駅のホーム。人の行列。朝のラッシュだろうか、この人の多さは。やっぱりどう考えても、視界がおかしい。この見え方は、子供の目線じゃない。

 電車が来た。開いた扉から吐き出される人の群れ。並んでいた人達が一斉に、そこに流れ込む。途端、視界がぐらついた。ホームの地面、コンクリートが見える。視界が真っ暗になる。転んだのだろうか。

 そう思った瞬間、また視界が明るくなる。転んでいない。立っている。目線が動く。次の瞬間見えた人の顔に、俺は小さく息を呑むと同時に、何をやってんだこの馬鹿!と、思わず盛大に、怒鳴りたいのか泣きたいのか、よく分からない複雑な気持ちになった。

 視界の持ち主に何か言っている見慣れたその顔。間違いようもない。孝だ。何を言っているかまでは聞こえないけど、短い言葉だ。大丈夫? とか、多分そういう感じの。俺には、その声の調子すら容易く耳に再生できる。そのまま孝は、人に流されるように電車へと向かっていく。人に紛れていく見慣れたカーキ色のパーカー。去年だったか、一緒に行ったフリーマーケットで買って以来、孝がしょっちゅう着ているやつだ。この前も着ていた。

 視界の持ち主は、電車に飲み込まれていく孝の後姿を同じ場所で見送っている。このシーンは、俺がさっき一瞬だけ見た映像と同じものだ。

 ………待てよ。孝はさっき、この視界の持ち主と会話をしていた。会話が出来るということは、この視界の人は、まだ生きているのか? ユキちゃんじゃ、ない? じゃあどうしてユキちゃんの中に、この映像があるんだ? これは、どういうことなんだ?

 

 頭に入り込んできた映像を、がむしゃらに捕える。

 また、駅だ。でも、さっきとは時間帯が違う? 人がまばらだ。視界が下向きになる。雨なのか、濡れた傘の先が駅のホームに染みを作っている。造りの華奢なサンダルを履いた足。子供のものじゃない。やっぱり、この視界の人はユキちゃんじゃないのか? 

 視界が一気に上向きになる。何かを探すようにその視界が少し彷徨って、定まった。映し出されたのは、携帯で誰かと喋っている孝の横向きの立ち姿。能天気に、体をくねらせて笑っている。

 ……? 何かおかしい。間違いなく孝なんだけど、どこか違和感がある。………分かった、髪だ。髪の毛が短い。今の孝じゃない。そうだ。考えてみれば、服装もおかしい。いくらなんでも三月のこの時期に、タンクトップで出掛けはしない。見えてくる映像は、最近のものじゃなかったのか。

 じゃあこれは、いつだ? 孝が髪をあんなふうに短くしていたのは、いつだった? 普段あいつの髪型とか殆ど気にかけていないだけに、すぐには思い出せない。

 

 次に捕えた映像も、同じく駅だった。

 視界が映したホームの時計は、四時半を指している。高校生らしき制服を着た集団が前を通り過ぎる。みんな長袖だ。カーディガンを着てる人もいる。この映像の中はもう、夏じゃないのか?

 高校生の集団が過ぎて、視界が開ける。その開けた視界の向こう側、向かいのホームに見知った影を見つけて、俺は固まった。まるでそれに連動しているかのように、動いていた視界もそこで止まる。

 笑っている孝と、その横にもう一人。

 俺だ。俺が、いる。

 孝が笑いながら俺に、携帯の画面を見せている。携帯を覗き込んで笑う俺のリアクション。着てる薄いグレーのトレーナー。手に持っている缶コーヒー。

 ………覚えている。この日を覚えている。去年の、学祭の打ち上げの日だ。クラスの奴らで集まって、普段行かない街で遊んだ。これは、そこに向かうところだ。この少し前まで、数人で孝の家でゲームして遊んでいて。もう少ししたら後二人、友達が来るはずだ。ほら来た。一人がふざけてどしんと体当たりしてきたせいで、缶から飲みかけのコーヒーが零れたんだ。服にかかって、俺が喚いている。間違いない、あの日だ。

 俺はこの視界の人と、去年のあの日、同じ時間に同じ場所にいたってことか? 

 一体誰なんだ、この視界の人は。ユキちゃんと、どう関係しているんだ。

 ユキちゃん。君はどこにいるの? この映像のどこかにいるの?

 

 そう問いかけたのを合図にしたかのように、頭の中で映像が、床に落としたジグゾーパズルみたいに、ばらばらに散らばっていく。どれを見ても駅で、どこを見ても孝がいる。この視界の人は、不思議なくらい、いつも孝を見ている。わざわざ目で探しては、孝を………、ああ。そうか、そうなのか。自分の鈍さに、思わず舌打ちしそうになる。

 この人は、孝のことを――――…。

 でも、それとユキちゃんと、何の関係があるって言うんだ? ユキちゃんは、どこなんだ?

 

 急に場面が暗転するように、再生される映像が変わった。

 ここは、どこだ? 白い壁。花の絵が飾られた額縁。白いシーツ。ベッドの上? この視界の人の部屋か? 

 パジャマらしい服の袖から見える細い手首。若い女の人の手。なんだ、これ? 点滴…? そうだ、点滴だ。手の甲から点滴を打たれている。ということは、ここは病院なのか?

 視界が上がる。五十代くらいの女の人が、花瓶を持って近寄ってくる。綺麗な花。枕元のテーブルにそれを置いて、何か話している。笑っている。笑っているけど。

 微かに、目の淵が赤く見えるのは気のせいだろうか。まるで、泣いた後みたいだ。

 

 映像が変わる。駅の時と違う。必死に捕まえなくても、勝手に浮かび上がってくる。

 視界に映るこれは、天井? 横になっているのか。夜なのか、蛍光灯がついている。視界が横に動く。誰か来る。

 さっきの女の人だ。それと、やっぱり五十代くらいの男の人。濃い色のスーツの上にしっかりしたコートを着ている。その二人の向こうに間仕切りの白いカーテンが見える。ここはまだ病院なのか? 

 男の人が話しながら、手にしていた袋から何か取り出す。本だ。それを受け取ったのだろう、視界に入ったその手に、俺は一瞬、ぎくりとした。

 ひどく、痩せてしまっている。さっきの映像で見たより、ずっと。骨が浮き出た手の甲に刺さっているのは、点滴の針で。やっぱりここは、まだ病院なんだ。入院しているんだ。

 こんなに痩せ細ってしまうほど、重い病気なのだろうか。さっき見た、あの女の人の泣いた後のような目元が脳裏を過ぎって、胸が嫌な感じにざわつく。

 

 視界が薄明るくなったり暗くなったり、ぼんやりと点滅している。微かに世界が揺れている。天井が遠い。数人が覗き込んでいる。白衣を来た人が、何か言っている。何人もの人が見えたり見えなくなったり、慌しい。あれは、あの服装は、お医者さんと看護師さん達だ。

 

 ぷつんと電気が切れたように真っ暗になった視界に、再び光が射す。

 あの女の人が、ベッドの横に座っている。ベージュのセーターを着て、両手で顔を覆っている。……泣いて、いるのだろうか?

 目線が移動する。ひどく緩慢な動き方。

 花瓶に活けられた赤い花。染みの浮き出た天井。吊り下げられた点滴の容器。緑色の波線と数値を映し出している小さな画面。端に寄せられたクリーム色のカーテン。大きな窓を覆う白いレースカーテンの向こうからは、柔らかな光が差し込んでいて。その光を、じっと視界に留めている。

 

 ぼやけた狭い視界の向こうに、人が見える。でも、ぼやけすぎて、狭すぎて、はっきり見えない。何人かいる。何人かに取り囲まれている。

 視界が僅かに動く。明るい。その眩しさに狭い視界が閉ざされる。あれは何だ? ぼやけた視界の中にあって、あれほどに眩しいものって。

 

 視界が戻る。さっきと同じ状況。いや、さっきより更に、視界が狭まっている。

 眩しいものが、視界の端に映っている。狭い視界の端が、ぐにゃりと揺れる。ぼやけて、ぐにゃぐにゃの狭い視界。だけど、見えた。分かった。

 あの眩しいものは、窓の外の光だ。カーテンが全部開けられていて、その向こうに、よく晴れた、眩しいほどに明るい空が広がっている。

 どこまでも明るい、水色の空。薄くなびく、白い雲。鳥らしき影。飛んでいく。遠くなっていく。空も雲も鳥も。視界から遠く、ぼやけて。閉じていく。光が、閉じられていく。

 明るい明るい水色の、その眩しい残像だけを最後に映して、視界が―――……。

 

『……して』

「え…?」

 響いてきた声に思わず、目を開けた。

 目線の先ではユキちゃんが相変わらず、孝にしがみついて泣きじゃくっている。だけど。

『どうして』

 再度、同じ声が響く。俺は目を忙しなく右往左往させた。状況が飲み込めない。

「…ユキ、ちゃん……?」

 それは間違いなく、目の前で大声をあげて泣いているユキちゃんから聞こえてくるもので。

 そして、ユキちゃんの声から子供特有の甲高さと舌足らずな喋り方を抜いたら、こうなるだろうと思わせるに充分なほど、ユキちゃんの声とそっくりだった。

 

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