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【 09 】 - 1

 

 暫くの間、俺達は黙ったまま病室の窓辺に立って、そこよりもうずっと遥か彼方へ行ってしまった人達を見送るように、月が浮かぶ夜の空を同じように見上げていた。

 そうして、ひとしきり沈黙の中を漂った後、俺はゆっくり口を開いた。

「フィー」

「………なんだ?」

 少し遅れて返ってきた声は、静寂に溶けそうなほど静かだった。

「樹霊さん、魂になれる?」

「分からぬ。なるように、祈るだけだ」

 空を見上げたまま、息を吐くようにそう言って、フィーは横顔で少し微笑む。

「だが、あれならばきっと、美しい、強い魂になれよう」

 月の光に照らされたその横顔はとても綺麗で、銀色の髪も青い目も、その清廉さを際立たせていた。

「フィー?」

「なんだ」

「知ってたの? 由希ちゃんが自力で無垢に戻れたら、樹霊さんを連れて行けるって」

「前例があったゆえな」

 窓の外を見上げたまま、横顔で答えるフィーを横目で軽く睨む。

「だから、自分は浄化しないから、自分で何とかしろとか俺達に言ったわけ?」

「実際、無謀すぎる賭けだと、我ながら思うたがな」

 フィーはやっぱり、窓の外に顔を向けたまま、軽く肩で息を吐いた。その顔が、くるりと俺を見る。

「お主は、ほんにようやってくれた。お主がおらねば、恐らく無理だったであろう。礼を申す」

 微笑んで真っ直ぐに目を見てくる青から、俺は少しだけ視線を逸らした。今はあの、いつもの罪悪感に邪魔されたくなかった。フィーはそれを気にする様子もなく、大袈裟に肩を竦めてみせる。

「まあ、穢れに触るわ、穢れの念と意識は共有するわ、正直こっちは肝を冷やすどころの騒ぎではなかったがな」

「じゃあ、由希ちゃんを流し消すって言ったのも、俺達をその気にさせるための嘘だったってわけ?」

 少し憤然として言えば、はっ。と、息で笑うような声が返ってきた。

「まさか。あの時は本当に、流し消そうと思うておった」

 はっきりと言い捨てて、フィーがまた窓の外に顔を向ける。そうしてからフィーは、溜め息を吐くように小さく肩を落として静かに言った。

「だが、お主が言うたであろう。酷いことをされたからとて、同じことを仕返していい道理はないと」

「うん。………でもあれは、今思えば、口先だけの思考だったかもしれない」

 あの時フィーが言ったように、もし酷い目に遇ったのが自分の大事な人だったら、恐らくそんな道理は頭から消え飛ぶだろう。

 やや俯き加減で答えた俺に、フィーが大きく息を吸いながら声を返す。

「口先だけでも、何でも。お主はたまに、正しいことを言う」

 その声に顔を向ければ、フィーは、ここではないどこか遠くを見るような目で、窓の外を見ていた。

「私達、力を持つものは、その道理を忘れてはならぬのだ。特に、私はな。だが、星から与えられた本能ゆえか、愛するものを失う局面に立たされると、私はどうしても、理性を忘れて感情が暴走してしまう」

 しみじみと思い入るように話す横顔を、知らず知らずのうちに、じっと見つめてしまう。

 月の光だけに照らされているフィーは今、さながら月の女神のように堂々とした美を見せ付けながらも、美よりも可憐という言葉のほうが、よく似合う気がした。

「あの頃から少しも成長しておらぬ。年月だけは、これほど経ったというに」

 静かな声で悔しげにそう言い、フィーが僅かに目を沈ませる。そこに浮かんだ翳りに何を思うべきか深く考える暇なく、フィーはすぐまた目を上げると顔を俺に向けた。

「何故指輪がお主を選んだか、少し分かった気がしたわ」

 こっちを見ながらそう言って軽く微笑む様は、どこか苦笑めいていた。

 俺はその顔を少しじっと見た後で、ゆっくりと胸の中の息を静かに吐いた。そうしてなるべく目を見ないようにフィーの顔を見ながら、ゆっくりと口を開く。

「さっき、風の道でシシィに言われたんだけどさ。人は人のため以外じゃ動かないって」

 フィーはじっと耳を傾けるように、口元に小さな微笑を浮かべて、静かに俺をその目に映していた。

「俺、その時すぐには何にも言葉が出なかったんだ。多分、本当のことだからなんだよな。なんか情けないけど、これまで人以外のために何かしたことあるかって言われたら、何も思い浮かばない」

 その言葉に、柔らかく頬をあげて、フィーが笑う。

「それで良いのだ。樹霊も言っておっただろう。お主は人間だ。人間は人間らしく、ありのまま生きれば良い」

「うん。でもな」

 表情だけじゃなく声まで柔らかくして言うフィーに、頷きつつそう返して続ける。

「由希ちゃんが言ってたんだ。愛されていることにも気づかずにいた自分が、歯痒いほど悔しくて、だから少しだけでも、愛してくれた世界のすべて、その思いに応えたかったって。由希ちゃんの魂にあった念は、世界への感謝と後悔、だったんだ」

 俺を見ていたフィーの目が、表情ごと少し止まった。だけどそれは一瞬で、フィーはすぐに目を細めた。

「そうか……。あの強い念は、そのようなものであったか……」

 細められた目が、やんわりと微笑む。

「人間とはほんに愚かで、いじらしい生きものよなあ」

 やや斜め下を見ながら独り言のように呟くその目を覗き見れば、そこには、あの深い色が見逃しようもないほど、じんわりと滲み出ていた。だけど、そうやって浮かべている微笑は穏やかながら、やっぱり少し、どこか哀しげで。

 俺はちょっとだけ、じっとそれを見て、また口を開いた。

「俺もさ」

 フィーが顔を上げてこっちを見るのを感じながら、思ったことを伝えるべく口を動かす。

「あの時、お前が自分でどうにかしろって言った時、俺に何が出来るんだよって正直思ったけど、でも、孝を身を挺して守ってくれて、由希ちゃんを還すために頭まで下げてくれた樹霊さんの思いに、応えたいって思ったんだ。勿論、孝や由希ちゃんを助けたい気持ちが強かったのも本当だけど、でも、樹霊さんのためにも何とかしたいって、本当に思ったんだ」

 あの思いだけは、本当に、口先だけの思考じゃなかったと言い切れる。そして今、胸にあるこの思いも。

 けして、口先だけの思考なんかじゃない。

 そのことを分かってもらえるよう、意を決して、フィーの目を見た。そこにある青を真っ直ぐに見て、こみ上げるいつもの罪悪感に負けないように、しっかりと声に力を込める。

「フィー。俺は阿呆で、色んなことを見落としてて、殆ど自分のことしか見えてないと思う。だけど、このままずっと、自分のことだけしか考えない人間でいたくない。人間のことしか考えられない人間になりたくない」

 言った俺を、フィーは黙って見つめていた。その目を真摯に見つめ返しながら、俺は自分の思いを真っ直ぐフィーに伝えた。

「教えて欲しい。星のことや、精霊のこと。ちゃんと知りたいんだ。お前のことも」

 青い目を真っ直ぐ見返すことで、胸に湧く罪悪感に似た心地悪い感情。それに堪えながら、じっと答えを待つ。

 フィーは少しも動くことなく、黙って俺の目を見ていた。相手の全てを見透かすような、研ぎ澄まされた青。

 だけど、見れば見るほどその青は今、推し量って見極めるというより、これで見納めのものを見るような、どこか切々としたものに見えた。

 これが最後。そう言うかのようなその目つきに、怪訝さが募る。問いかけようと口を開きかけ、だけどそれより先にフィーが、ふっと、目の表情を変えた。

 包むような柔らかな眼差し。それは、さっき樹霊さんに向けられていたものと同じで。フィーはそこに、あの深い色を隠すことなく溢れさせて微笑んだ。その口が優しく動く。

「星について私がお主に教えてやれることは、そう多くはない。私は確かに星と共に永く生きてはおるが、それでも分からぬこと、知らぬことが多々あるのだ」

 表情同様に優しい、柔らかな声だった。

「だが、その気になればお主は、私よりも深く多くを知ることが出来よう。永い永い悠久の精を持つ私達より、ほんの一瞬の精しか持たぬお主達のほうが本当は、遥かに多くのことを星に感じ、そこから学び考え、胸に深く刻み知ることが出来るゆえ」

 言って口を閉じると、また少し微笑む。もし本当に、聖母と呼ばれた人がいたなら、その人はきっとこんな感じだったに違いないと思わせるほど、情愛に満ちた微笑みだった。

「だが、私や精霊のことについては、話しておかねばならぬ」

 だけど次にそう言った時には、フィーはもうその目に、包むような優しさではなく、背筋が伸びるような凛然とした光を携えていた。

「お主にはもはや、知っておく必要がある。そして、選ぶ権利がある」

「選ぶ?」

 思わず眉根を寄せて、訊き返す。フィーはそれには答えずに、向き合っていた体ごと目を窓のほうに向けた。窓ガラスに映る自分の顔を毅然として見ながら、静かに口を開く。そこに微笑みは、もうなかった。

 

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