【 11 】 - 1
一定の速度で流れていく雨の街を、脇目も振らずフィーは扉のガラスに両手をくっつけて眺めている。
時折、車両全体に響く揺れに体を頼りなく揺らしながらも、流れる景色に夢中になっているその姿を、俺は手すりに寄りかかりながら見ていた。
普段なら二駅くらい歩くのだけど、今日は雨も強いし、何より俺自身、少し思考に集中したくて、電車を利用することにした。予想通り、フィーは電車に乗るのが初めてらしく、目を輝かせて興奮している。おかげで俺は、つい黙り込みがちになることも気にせず考え事が出来るのだけど、いくら考えても分からないことは答えが出ないわけで、結局、どん詰まりだった。
ただひとつだけ、自分なりに考えて見当をつけたことは、俺が皐月さんの話を覚えているのは、もしかしたら、皐月さんが言っていた俺の生まれ持った力とやらが関係しているのかもしれないということだ。
皐月さんは電話で、俺は誰にもない力を持って生まれてきたと話していた。その一部が、魂の姿が見えたり、声が聞こえたりすることらしい。フィーも確かに昨日、そんなことが出来る人は神にも精霊にもいないと言っていたし、本当に俺には何かしら特別な力があるのかもしれない。
だけどその考えにも、今ひとつ自信がないというか、確信が持てない。どう考えても、自分が何か特別な力があるような人間だとは思えないからだ。
自慢じゃないけど俺は、何もかも人並みだ。頭も運動神経も、特別いいわけじゃない。勘だって外れることのほうが多いし、スプーン曲げとかが出来たことだって一回もなければ、フィーに会うまで、いわゆる霊的なのものを見たことも一度だってなかった。
昨日は確かに、由希ちゃんがはっきり見えたし、話も出来たけど、今日さっきから何人か、すれ違う人や電車に乗っている人で確認してみた結果、魂なんか見えないし、声も普通に喋っている声以外聞こえない。昨日のあれは夢だったんじゃないかと疑いたくなるくらいだ。
だけど、俺は現に今こうして、皐月さんとの会話を覚えている。フィーの様子を見ても、皐月さんの話は嘘じゃない。フィーは確かに、皐月さんとの電話以降、正確には俺が伝言を伝えた直後から、誰かが掛けている暗示の影響を受けている。それなのになんで俺だけ、『電話を切ったら内容を忘れる』という暗示の影響を受けていないのかと考えていくと、やっぱり、俺に何らかの力があるからだという結論に至ってしまう。
皐月さんは、父さんと母さんの希望で、生まれる前に俺に暗示を掛けたと言っていたけど、一体何の暗示を掛けたのだろう。フィーのように記憶を塗り替えられているのだろうか。それとも、その力とやらを使えないようにされているのだろうか。何のために?
よく分からないけど、来るべき時に俺が必要だというのは多分、俺が持って生まれたというその力が必要だってことだろう。それ以外、俺に何かがあるとは思えないし。なのに、その力をわざわざ暗示で使えなくする理由が見えない。記憶にしたって同じだ。俺がレネでもレネでなくても、生まれてきているってことは転生しているわけで、一度無垢に戻っているのだから、フィーみたいにずっと続いている記憶があるわけじゃない。
考えても考えても、俺に暗示を掛ける必要性が、まったく分からない。
父さんと母さんは何を恐れて、何を俺にさせたくなかったんだろう。逆に言えば、俺に何が出来るんだろう。
皐月さんは、俺なら大丈夫、俺なら守れるって言った。あれは何のことだろう。自分のことすらままならないのに、何を守れるっていうんだ、俺に。正直、全然大丈夫じゃない。
「真生」
思考に沈みかけた視界の先で、くるりとフィーが顔だけを俺に向ける。
少しの曇りもない明るいその眼差しに、声を返すのが一瞬遅くなった。
「…なに?」
「人間は、ほんにいじらしくて、面白いな。ひ弱な足に代わり鉄の箱を動かすとは、よう考えた。あの、何だ。飛行機? あれを初めて見た時も笑ったが、これもかなりツボだ」
本気で愉快なのだろう、やや上気した笑顔を向けるフィーに、蓄積されていく感情は胸に沈めたまま、当り障りのない言葉だけを返す。
「あ、そ。そりゃ良かったな」
「今度、シシィも乗せてやろう。きっと腹を抱えて笑うぞ」
「笑うために乗るものじゃないんですけど」
半目になる俺には構わずに、フィーは嬉々としてまた電車の外の景色へと顔を向ける。その横顔に思わず、胸から零れた溜め息を誤魔化すべく、口を動かす。
「次で降りるからな」
「えええ」
「そのうちまた乗せてやるから」
言えば、フィーは不満そうに口を尖らせつつも、電車の中へと体ごと顔を向けて頷いた。
「まあいい。この箱の中には、レネはおらぬようだし、用はない」
あっさりと言われた言葉に、返す言葉が出なかった。フィーは気にする様子もなく、扉に背を預けて、今度は車両内のあれこれを興味深そうに眺め始める。
もしも。もしも、本当に俺がレネなら、フィーは暗示を掛けられている限り、気づかない。それなのに、ずっとこうして探させ続けることに何の意味があるんだろう。
正直、自分がレネだなんて実感は、これっぽっちもない。違うと思ったほうが納得がいく。
フィーのことは別に嫌いじゃないけど、好きだけど、それはそういう好きじゃない。俺が本当にレネならきっと、最初に会った時から、フィーに恋愛感情を持つはずだ。運命っていうのは、そういうものだろう。それを、恋愛感情どころか、居た堪れない妙な罪悪感のような感情しか特別に感じるものがないなんて変だ。今は尚のこと、フィーに対して後ろめたさしかない。やっぱり俺は、レネじゃない。そう考えたほうが、ずっと自然だ。
でもじゃあ、俺とフィーは何なんだろう。なんでフィーは、俺が生まれる前から俺を守ろうとしたんだろう。俺とレネに、どういう関係があるんだろう――――……。
「おい。ここで降りるのではないのか?」
声に促されて、はっとして体を動かす。そんなに考え込んでいたつもりはなかったのだけど、気がつけばいつのまにか駅について、扉が開いていた。
既に電車から降りかけていたフィーが、振り向いた姿勢で、怪訝そうに顔を顰める。
「お主、何か変だぞ? どうした?」
「別に」
扉が締まる音に、フィーの背を押して一緒にホームに降りながら、曖昧に言葉を返す。そのまま並んで、改札へと繋がる階段へと向かうも、フィーは納得いかない顔で、横から見上げてくる。
「皐月のことか?」
「え?」
出てきた名前に、瞬間足が止まりそうになった。フィーを見れば、気遣うような目で俺を窺がっていた。
「皐月が旅行に行くのが、そんなに寂しいのか?」
「旅行?」
「旅行に行くのだろう、皐月は。お主がさきほど、私にそう言うたではないか」
「……ああ。……いや、違うよ。寂しいわけじゃない」
ほんの少しだけ口に笑みを作って答え、前を向いた。
フィーの中では、皐月さんは旅行に行くことに、いつのまにかなっているらしい。そんなこと、俺は一言もフィーと話していないのに。これが皐月さん達のいう、記憶の塗り替えの一端なのだろう。
どこにいるかも分からない皐月さんのことが、心配じゃないわけがない。早く帰ってきて欲しいと、真剣に思う。だけど今、俺に圧し掛かっている問題は、皐月さんのことだけじゃない。
「では、なんだ? さきほどから人の顔を見ては物思いに沈んで。何を考えておる?」
横を歩きながら、フィーが尚も追求してくる。何でもないと返したところで、納得しそうにない。顔を前に向けたまま、心の中だけで溜め息を吐く。いい言い訳を探しあぐねる俺の横で、フィーが顔をこっちに向けたまま、また口を開く。
「まさか、お主。私の本来の美しさに惚れたとか言うのではなかろうな?」
予想の斜め上をいく発言に、思わず唖然としてフィーを見る。
フィーは、驚くくらい大真面目な顔をしていた。
「忠告する。やめておけ。私はレネしか愛さぬ。お主が傷ついて苦しむだけだ」
「………今、ちょっとだけ、お前が心底羨ましくなった」
俺が今、訳が分からない状況に立たされて悶々としているのは、フィーのせいじゃないし、はっきり言ってしまえば、フィーは被害者で、俺は加害者だ。そう分かっていても、その能天気な発想に呆れてしまう。
「安心しろ。お前にそういう感情は持ってないし、この先どう転んでも、持てないと思うから」
脱力した肩を隠すことなく、溜め息混じりに心から言って返す。
フィーは少し俺の顔をじっと見た後で、嘘じゃないと分かったのだろう、視線を俺から外して前を向くと、徐に言った。
「そうだな。お主には、あの娘がおるし」
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